「暗唱できるほど心揺さぶられた」ノンフィクションの先駆者が感銘を受けた作品

第5回

柳田 邦男 ノンフィクション作家

電子版ORIGINAL

エンタメ 読書

各界で活躍する”達人”たちが、人生を変えた「座右の書」を紹介する連載。達人たちはどのような本を読み、どのような影響を受けてきたのか、その半生とともに振り返る――。第5回は、NHK記者から独立し、日本のノンフィクションの黎明期から最前線で活躍する柳田邦男さんが登場。

(取材・構成 稲泉連)

柳田邦男氏 ©文藝春秋

柳田邦男(やなぎだ・くにお)

1936年生まれ。栃木県出身。鹿沼高校、東京大学を経て、60年にNHKに入局する。社会部遊軍記者として全日空機羽田沖墜落事故など複数の航空事故を取材し、71年、それらの取材をまとめた『マッハの恐怖』(新潮文庫)を刊行、第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。74年にNHKを退職。その翌年、広島の原爆投下と、終戦直後に日本に上陸した枕崎台風がもたらす「複合災害」の脅威を描いた『空白の天気図』(文春文庫)を上梓。以降、ノンフィクション作家として数多くの著書を発表している。

読書家の下地を作った「古本屋の店番」

 僕が「本」の世界に初めて没頭したのは、振り返ると小学校に入った戦時中の昭和17年の頃のことですね。1年生の3学期に腎臓病を患ってしまい、3カ月ほど学校を休んだんですよ。療養中、退屈で仕方がなくて時間を持て余していたところ、お父さんが校長先生をしている同級生の女の子が、家にある少年少女文学全集のようなものを貸してくれたんです。安静にしていなければならなかった間に、『巌窟王』や『ハイジ』や『小公子』といった作品をいくつも読みました。

 それからもう一つ、僕の少年時代における「本」との関わりと言えば、欠かせないのが終戦後に兵役から復員した一番上の兄が古本屋を始めたことです。

 僕は栃木県の鹿沼で昭和11年に生まれ、終戦時は9歳でした。3人の兄、2人の姉がいる6人きょうだいの末っ子です。

 その頃、我が家の運命を大きく変えたのは結核という病気でした。仙台の工業学校に行っていた2番目の兄が仙台空襲で雨の中を逃げ惑ったのがもとで肺結核になって、終戦の翌年2月に亡くなり、同じように戦時中から胸を患って療養していた父親が、7月にあとを追うように亡くなってしまったのです。そうした不幸が終戦後に相次いだことで、僕の家は母が手内職をやりながら、何とか食いつなぐという状況になった。そんななか、家計の足しにしようと12歳年上の長兄が始めたのが古本屋だったんです。

 宇都宮の部隊にいた長兄は、戦災の体験に大きなショックを受け、「なぜこんな国になったんだ。この国の歴史を知ろう」と地元の仲間と「史談会」という研究会を行うようになった。地域の産業や文化の歴史を掘り起こす郷土史研究会を立ち上げ、その活動に没頭し始めたんです。それで、小学校の高学年から高校時代まで、学校が終わると僕は古本屋の店番をいつも任されることになったわけです。

 ちょうど多感なこの時期に、僕は店番をしながら貪るように本を読みました。さらに中学3年生の頃には町に新しく図書館ができたので、中学時代の僕の放課後は古本屋の店番をしているか、図書館で本を読んでいるかという毎日になっていく。オー・ヘンリーやモーパッサンといった海外の作家の短編集にずいぶんと心惹かれ、この頃に「少年少女文学」とは全く違う世界から刺激を受けるようになっていった。

 文学、天文学、気象学、音楽など、さまざまな分野の本を読みましたが、後にノンフィクションを書くようになる自分の原点の一つとなった一冊を挙げるとすれば、中学3年生の時に読んだヘルマン・ヘッセの『青春彷徨』でしょうか。

 この小説は非常にロマンチックな物語なのですが、特に惹きつけられたのは、主人公のペーター・カーメンチントの少年時代、彼がアルプスの山越えの空の雲を見ている描写が数ページにわたって続いている箇所でした。

 実は当時の僕の夢は気象台の測候技師になること。家では手作りの風向計や雨量計を庭に設けて、気象観測ばかりしていたんです。雲は常に変化し、巻雲やうろこ雲や積乱雲など、種類もたくさんありますよね。刻々と変わっていく雲形を観察するのが面白く、観測野帳を作って熱中していました。だから、雲に惚れ込んだペーターが空を眺める際の詩的な表現に共感を覚えたんです。彼が見ているのはアルプスの乱れる雲なので、北関東の空の様子とは全く違う。その描写のダイナミックさに憧れを抱いたものでした。

 後に、ノンフィクションを書くようになった僕は、2作目に『空白の天気図』という本を書きます。これは原爆が投下された約1カ月後に広島を襲った枕崎台風と、それに立ち向かった気象台の人々の姿を描いた作品でした。このとき、原爆と台風という複合災害をテーマにしたのは、今から振り返ると『青春彷徨』の影響があったように思うんですね。

「2冊目のテーマも同じでは駄目だ」

 さて、僕がデビュー作である『マッハの恐怖』を書いたのは、まだNHKの記者をしていた1971年のことでした。この本は1966年2月4日、全日空機が東京湾に墜落し、乗員乗客133人全員が亡くなった「全日空羽田沖墜落事故」を中心に、同じ年に起きた3件の航空事故の原因をめぐる謎を取材したものでした。

 当時、日本における「ノンフィクション」というジャンルは黎明期で、「毎日新聞」の内藤国夫さんが東大紛争のルポを『文藝春秋』に書いていたくらいでした。そんななか、1969年に僕が羽田沖墜落事故のルポを『文藝春秋』に書き、2年後に本にしたわけです。この本は大変なベストセラーになり、僕のノンフィクション作家としてのキャリアが始まっていくことになりました。

 後に立花隆さんが「田中角栄研究」で田中角栄の金権政治の実態を描いたり、沢木耕太郎さんが『人の砂漠』という素晴らしい短編集を書いたりと、1970年代は日本のノンフィクションが盛り上がりを見せていく時期。僕もまたその時代の流れの中でNHKを退職して『空白の天気図』の取材に取り掛かりました。

『空白の天気図』は新潮社から出版されます。今でも忘れられないのは、そのとき同社の出版部長をしていた新田敞(ひろし)さんという編集者から、このように言われたことです。

「柳田君、最初に航空事故の話を書いたからといって、2冊目のテーマも同じ航空事故というのでは駄目だ。それでは航空評論家扱いされて、ノンフィクションのジャンルを拓くというイメージがなくなってしまうよ」

 そして、新田さんが「これを読みなさい」と手渡してくれたのが、アメリカの作家ゲイ・タリーズの『汝の父を敬え』という一冊でした。僕はこの本を読んだことによって、アメリカの「ニュー・ジャーナリズム」の世界に強く惹きつけられたんです。

『汝の父を敬え』(上巻)

『汝の父を敬え』は1971年に発表された作品で、シチリア出身のマフィアであるジョゼフ・ボナンノに7年間にわたって密着、イタリア系マフィアの内部を綿密な取材によって描いた傑作です。マフィアの家族の忠誠心や人間ドラマ、そこに生まれる葛藤などマフィア社会の細部を、ゲイ・タリーズは極めて文学性の高い文体で描きました。

 例えば、僕はこの本の書き出しからやられてしまいました。

〈ニューヨークのドアマンは、見て見ぬふりをするという特異な感覚を身につけている。見てはならないものまで見てしまうからである。何を見るべきか、何を無視すべきか、いつ好奇心を持つべきか、いつ無関心でいるべきかといったことをドアマンは心得ている。〉

 この作品には、7年間の密着取材の中で、ボナンノ一家の若者の自室にタリーズが入ると、そこにフォークナーの作品が読み止しになってデスクの上に置いてあった――といった描写がある。これはすごい描写だと思いました。

「ああ、ノンフィクションっていうのはこういうところにまで入り込むんだ」

と、感銘を受けましたね。新人に対する編集者のモチベーションの与え方って大事ですね。

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