「世界のニナガワ」と呼ばれ、国内外で高い評価を受けた演出家・蜷川幸雄(1935〜2016)。とりわけシェイクスピアの戯曲への探究心は尽きることがなく、「彩の国シェイクスピア・シリーズ」で全37作品の完全上演を目指した。その遺志を継ぎ、2代目芸術監督に就任した吉田鋼太郎氏が思い出を語る。
昭和56(1981)年、22歳の時のことです。蜷川さんが演出、唐十郎さんが脚本の『下谷万年町物語』に参加することになりました。物語の舞台は昭和23年、上野と鶯谷の間にある街。僕はそこに住み着く男娼の1人を演じることに。初稽古に行くと、100人ほどいる男娼役が群舞をすることになったのですが、どんな風に踊ればいいか分からない。すると「そこのお前! ちゃんと踊れ!」と蜷川さんの怒号がいきなり飛んできた。僕を指差して怒っているんです。衆目に晒され、すごく恥ずかしかった。稽古場がある晴海からとぼとぼと歩いて、築地にある蕎麦屋で熱燗を飲みながら「明日から稽古に行くのはやめよう」と決心しました。苦い思い出です。
敵前逃亡をしたわけですから、二度と縁がないと思っていました。ところが41歳のときに、『グリークス』という舞台に出ないかと関係者から声を掛けていただいた。10本のギリシャ悲劇を再構成した舞台で、上演時間が10時間にも及ぶ大作です。「また恥をかくかも」と躊躇しましたが、一方で「役者としてさらにステップアップしたい」という野心もあり、覚悟を決めました。
蜷川さんの舞台は、登場人物の多さから物語の長さ、セットの大きさまで全てのスケールが大きく圧倒的です。その中心に必ず蜷川さんがいて、叱咤しながら芝居が出来上がっていく。通常の舞台は演出家と俳優が相談しながら徐々に役作りをしていくものですが、蜷川さんは大勢の俳優や関係者が見守る稽古場でいきなり「はい、やって」。ジャズのように即興的にやりながら完成度を高めていくので、少しでも気を抜くと、弾き飛ばされそうになる。そういう稽古場に参加したのは初めてでしたから、恐怖でしかなかったですね。
前述したように僕は期するものがあったので、稽古の中で蜷川さんを振り向かせたかった。そこで、僕が演じるアイギストスと共謀して王を殺害する王妃役・白石加代子さんにアドリブでディープキスをした。イチかバチか。心臓が破裂するくらい緊張しましたが、そのシーンが終わると、「好きなようにやっていいからね」と蜷川さんは仰った。認められたんだな、と込み上げるものがありました。
「蜷川さんは稽古中に灰皿を投げる」といった逸話がありますが、僕は一度も目撃したことはありません。その代わり、怒声は日常茶飯事。「この偽善者が!」と言われたこともあった。しかし、異様なエネルギーが渦巻く稽古場は祭りのような非日常的空間で、強烈なダメ出しはお囃子のようなものだった。血湧き肉躍る、僕らを奮い立たせるものでした。禍々しさとも言い換えられる特異な雰囲気は、蜷川さんの中に流れる昭和30〜40年代のアングラ精神に起因していると感じます。演劇が政治や思想と深く繋がっていた時代を生きてきたからこその感性なのでしょう。ただ、僕に「アングラブームは終わったもの」だとも語っていました。
そのため、絶対に時代の遺物にならないという危機感を持っている方でもあった。藤原竜也や小栗旬など、当時若手だった人気俳優を積極的に起用したのも、時流への感度の高さゆえだと思います。僕は蜷川さんが白羽の矢を立てた若手俳優に発声や呼吸の使い方を教える「教育係」を仰せつかっていました。
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