著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、麻布競馬場さん(作家)です。
家族をお休みしよう、とある日突然思い立った。二〇二二年の春先に実家で不幸があり、それに付随する様々なゴタゴタに巻き込まれていた最中のことだった。僕は家族にまつわる全てに疲れ果ててしまって、実家のLINEグループで「当面、家族をお休みします」と宣言したきり、音信不通を貫いたまま現在に至っている。
お前は母に似ている、と幼い頃から何度も言われてきた。目の形、鼻の形、名字を書くときの字の形。父は時代遅れの企業戦士だったから、僕にとって家族とは、ほとんど母との暮らしを意味していた。同じ形の人間が、違う内面を抱えて生きている密室──
母にとって善き息子であることをやめてから、僕はあらゆるものを捨てられるようになった。ウォークインクローゼットの高価な服をすべて捨てて、代わりにユニクロの服だけを買うようになった。自炊用に買い揃えた調味料や調理器具をすべて捨てて、代わりに毎日、味噌汁だけを作って食べるようになった。手元に残ったものといえば、小学六年生くらいの背丈まで育った観葉植物と、幾つかの原稿の締め切りくらいのものだ。
僕はどこまで捨てられるだろうか、と最近考える。無条件に愛された過去を、あるいは不当に傷付けられた過去を消すことはできない。仕立てのいいジャケットやチューブ入りのアンチョビペーストは捨てられても、形のないものはどう頑張っても捨てられない。
このあいだ、森美術館でやっているルイーズ・ブルジョワの回顧展に行った。僕は美術に疎いが、彼女の創作の原点が家族に対する複雑な感情であることが過剰なほどに伝わってきた。展示を最後まで見て回っても、安易な和解や救済は用意されておらず、代わりに、何度もひっくり返り続ける感情の捻じれた軌跡が、まるで傷跡のごとく延々と記録されていた。僕はそのことにひどく安心した。
実家のフローリングが日焼けした、といつだったか母が嘆いていたのを鮮明に覚えている。あちこちに大きな窓のある、日当たりのいい家だった。苛烈な日差しが家族から何かを奪っていったとも言えるし、何かを残していったとも言えるだろう。すべては解釈の問題なのだ。捨てられない過去がいつの日か反転したとき、僕は再び善き息子に戻れるだろうか。
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