この映画が、「格差社会」を超えて「階級社会」の意識へと向かわないことは、結末のシークエンスでの息子の語りにも表れているだろう。そこで語られるのは、大金を稼いで、父が地下室に幽閉されることになったパク家の元邸宅を買い取り、父を救い出したいという希望である。それは、格差社会の勝ち組になりたいという希望だ。決して、格差社会の構造そのものをひっくり返すといったことは想像されない。
だが、暴力だけはある。この、十分に社会的な意識をともなわない暴力の存在は、『パラサイト』、『バーニング』、そして昨年大ヒットし『パラサイト』とともにアカデミー賞にノミネートされている『ジョーカー』の中心にあるものだ。
この暴力は二面的なものだ。『ジョーカー』のラストシーンを考えていただければよいだろう。主人公アーサーの暴力は、民衆の蜂起を煽動する。それは、ある視点から見れば、権力の抑圧に対する民衆の抵抗を引きおこすものであり、「左派ポピュリズム」と呼びうるものに見える。
だが、同じ煽動が、トランプとブレグジットの現在の政治的空気の中では、外国人やマイノリティに対する排外的な感情と暴力──右派ポピュリズム──に結実してしまうこともまた容易なのである。実際、アーサー自身は障害者・貧者として社会から排除された恨みを暴力として発現させているだけだ。そこに社会化された意識はない。
偏見を描くことが、偏見を強化する?
冒頭のジョージ・オーウェルからの引用に戻ろう。この引用において悪臭への嫌悪を抱く「私たち」とは、オーウェル自身が属する中流階級だ。オーウェルはここで、その中流階級が持つ偏見について述べている。決して、下層階級には悪臭がするという「事実」について述べているわけではない。
ところが、『ウィガン波止場への道』を出した後、オーウェルは下層階級、または労働者階級に対する偏見を表明した咎で批判された。
このことは、格差や貧困を描くこと一般について大きな問題を投げかけている。もちろん、オーウェルの意図を尊重して、彼は労働者階級に対する偏見を批判的に記述したと主張することは可能だ。だが、「そういう偏見がある」ということを正確に、活き活きと記述することが、かならずそのような偏見をなくすことにつながると言えるだろうか。それどころか、そのような記述は偏見を強化することにもつながり得るのではないか?