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「格差」を扱う映画は、脱出の可能性を描かない

 このことを、一連の「格差」を扱う映画作品に当てはめて考えてみよう。『パラサイト』もそうであるし、イギリスのケン・ローチ監督の『家族を想うとき』でさえもそうなのだが、近年の作品は貧困や貧者の生活を赤裸々に、容赦することなく、そこからの脱出の可能性を安易に与えることなく描いてみせる。そこでは、労働者階級やアンダークラスが連帯して自分たちの苦境を解決する、そしてさらにはそのような社会を変える可能性は描かれない。

 もちろんこれは、現実にそれが無理だから、という説明もできる。こういった作品はその厳しい現実を描いているのだと。

 しかし、「格差社会」を描く映画が、自動的に格差社会に反対しているとは言えない。観客が、「このような不平等な社会は変えなければならない」と思う可能性があるのとまったく同様に、「分かった、このような社会で負け組にならないように頑張って競争しよう」と思うことだってできるのだ。その「競争」には外国人や障害者、性的マイノリティといった社会的弱者の排除も含まれるだろう。

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 「格差社会」について語ることの難しさはここにあると思う。ある作品が、格差であれ階級であれ、分断された社会を肯定しているのか否定しているのか。これはかならずしも、制作者の意図の水準で決定できる問題ではない。与える効果の問題でもあるからだ。

©︎getty

『パラサイト』の限界は、現代政治の困難そのもの

 そして、あくまで概念的に区別すれば、排他的な競争(椅子の取り合い)が強調される「格差社会」は右派ポピュリズムの温床となり、各々が階級に属して団結し、他の(支配する)階級と敵対する社会である「階級社会」は左派ポピュリズムの苗床である、ということはできる。

 だが、これは概念的な操作による区別であり、現実にはそのような区別は見定めがたい。暴力の火種となる不公正の感覚、恨みの感覚そのものには、右派も左派もない。『パラサイト』の結末で爆発する暴力が左派ポピュリズムの暴力なのか、右派ポピュリズムのそれなのか──これは、ここまで述べたことにもかかわらず、根本的な水準では決定不可能なのである。そしてこれが決定不可能であることが、現在の私たちの政治的な困難の中心にある。

 本稿で述べたような意味での「階級社会」を思い描くことは、もちろん現代では非常に困難であり、それが描けないことは『パラサイト』などの作品の限界というよりは、現代社会の限界だと言った方がよい。

 だがそれゆえにこそ、そのような決定不可能なものを決定しようと努力することはすなわち、現代社会の限界を乗り越えようとする努力となるはずだ。そこに描かれる暴力がいかなるピープル=人びとに共有されるものとして想像できるのか、それは真剣に考えるべき問題なのである。

※2月10日2時32分に内容を更新しました。

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