「格差社会」を描く作品を読み解くキーワード
この作品は、「格差社会」を描くものとして、最近世に出たいくつかの作品と比較されるだろう。ここ2年間くらいに限定しても、同じカンヌのパルム・ドールを獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』(2018年)、ケン・ローチ監督の最新作『家族を想うとき』(2019年)、またハリウッドからはトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』(2019年)とジョーダン・ピール監督の『アス』(2019年)、同じ韓国映画からは、村上春樹の短編を原作とするイ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2018年)、そしてイタリアからはアリーチェ・ロルヴァケル監督の『幸福なラザロ』(2018年)も、「貧しき者たちの歴史」を圧縮して描いてみせた近作としてこの列に加えることができる。
とりわけ『バーニング』や『パラサイト』は、むき出しの暴力でしか解決できないようなすさまじい貧富の差が印象的である。
このような映画が韓国から出てくることは、例えば金敬哲『韓国 行き過ぎた資本主義』(講談社現代新書、2019年)が活写する、韓国のし烈な新自由主義的競争社会のありようから説明もできるだろう。だが本稿では、『パラサイト』のような「格差社会」の物語とその解決が共有する限界について考えたい。
そこで、ひとつ提案したいのが、「格差社会」と「階級社会」を別物として、違う「社会のイメージ」としてとらえることである。大まかに言って、「格差社会」とは階級に分断された社会を外側から記述し、場合によってはその中での競争を煽るための概念であり、「階級社会」は階級に属する人間がそれを意識して社会化し、うまくいけばその意識を階級の中での連帯の根拠とし、さらには社会構造そのものの変化を求める根拠としていくような概念である。(この論点については河野「格差社会でいるくらいなら、日本は『階級社会』を目指した方がいい」を参照。)
『パラサイト』は、この二つのうち「格差社会」を描くことには成功しているが、「階級社会」に到達し得ていない。どういうことか、具体的にみていこう。
「勝ち組」の論理で入りこんでいくキム家
物語の前半は非常にテンポ良く痛快に展開する。そこでは、半地下の住宅に住むキム家が、スーパーリッチ家族パク家の「人脈」への信念を逆手に取ってこの家族の内部に「パラサイト」として入りこんでいく。
息子のギウは友人の紹介で家庭教師になって信頼を得て、妹のギジョンを、アメリカ帰りの芸術療法士として引き入れる。ギジョンはパク家のお抱え運転手を計略によって解雇させ、父をベテラン運転手の伯父さんであると偽って紹介する。さらには、雇われた父ギテクは、(架空の)会員制の家政婦斡旋業者を紹介し、妻を家政婦として家に引き込むことに成功する。
先ほどの記事でも論じたが、近年の新自由主義的な「競争社会」は、純粋な競争社会であるどころか、縁故主義(クローニズム)がはびこった、階級が固定され、勝者は勝ち続け、敗者は負け続けるような社会になっている。そのような社会での「勝ち組」であるパク家は、「人脈」の重要性をよく知っている。半地下の家族キム家は、そのような勝ち組の論理をうまく利用して、「人脈」をたぐる/たぐらせる形でパラサイトとなるのだ。