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いろいろあった“オリンピックの最寄り駅”「千駄ヶ谷」の“語られない過去”に何があった?

14時間前

genre : ライフ, , 社会, 歴史

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 アパレル関連の会社やギャラリー、スタジオなどもちらほらと建ち並ぶ、オシャレタウン・原宿近しを感じさせる町並みだ。それでいて神社やお寺もあるし、昔ながらの商店も目に付く。

 裏路地に入ると静かな住宅地。賑やかさと静けさ、新しさと古さ。そのどれもを兼ね備えているような、実に東京らしいエリアといっていい。千駄ケ谷駅は、本来ならばスポーツゾーンではなくこちら側の玄関口とするのが正しいのかもしれない。

どうして「千駄ヶ谷」は新宿側と渋谷側でここまで風景がちがう?

 もともと、千駄ケ谷駅の一帯は、渋谷川を境に新宿区側と渋谷区側でまったく異なる歴史を歩んできた。

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 渋谷川(つまりいまでいう外苑西通り)東側は、明治に入って青山練兵場が置かれ、明治天皇が崩御すると葬場殿が置かれて大喪の礼が行われている。そして、大正時代に明治神宮の建設計画が進むと、青山練兵場跡地は民間からの献金によって神宮外苑として整備されていまに続いている。

 いっぽう、渋谷川以西の渋谷区側は、古くからの住宅地だ。青山練兵場から代々木・新宿方面を結ぶメインストリートが青山街道。いまの千駄ヶ谷大通りだ。青山街道沿いを中心に市街地が形作られ、さらに周囲には徳川宗家や鳥取藩主家池田家の邸宅なども建ち並ぶ。当時にしてみれば、都心から少し離れた郊外という立地が華族たちに好まれたのだろう。

 

 そういった華族の邸宅に加え、古くからの神社仏閣、青山街道沿いに生まれた市街地。これが、いまの千駄ヶ谷の町のルーツだ。