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 国家のためとはいえ、非情な特攻攻撃でつぎつぎに生命を散らしていった隊員たちは、すべて若人である。国の宝であった。その国の宝を体当り攻撃で送り出した痛恨の想いが、大西にこの遺書を書かせた。死に臨んで闘将大西は、何よりも平和を希んでいた、と言えるかもしれない。

「特攻の父」の偶像を背負って

 今日われわれは大西中将を「特攻の父」とよんでいる。特攻作戦を発案し、それを実行に移した提督という意である。地下に眠る大西もまた、その名をかならずしも拒否するものではないことであろう。全責任を一身に負って自刃したかれの胸中には、十万億土で散華した多くの若者の先頭に立つの想いがあったであろうから。

 しかし、歴史的事実を深くたずねれば、そこに疑問なしとはしないのである。特攻戦術が採用されるに至るまでの経過は、きわめて混沌として見極めがつけにくい。一概に、大西中将の提唱によって、などと結論づけることは事実を見失うこととなろう。

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 昭和19年7月、サイパン島を失い、戦局は日本帝国にとって最悪の段階を迎えた。本土全部がB29の爆撃圏内に入ることを意味し、軍事工業が壊滅すれば近代戦の遂行は不可能になる。当時、軍需省航空兵器総局の総務局長であった大西は、この事態に対応すべく断乎たる処置を強請する意見書を、海軍大臣嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将に突きつけた。

 その所見が海軍中央を震撼させるのと前後して、東条英機(とうじょう・ひでき)内閣が総辞職し小磯国昭(こいそ・くにあき)内閣が成立、海軍首脳部が一新してしまう。しかし大西の意見書の波紋はおさまらぬどころか、いっそう荒立ち、10月5日付で大西の南西方面艦隊司令部付が発令される。やがて、つぎの決戦正面であるフィリピンの第一航空艦隊司令長官に任命されるであろうふくみが、その裏にあった。

小磯国昭