「零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当りをやるほかに…」
この最前線転出が、はたして懲罰人事であったのか、それとも決戦正面へ海軍航空のエースを登場させる重要な意味をもっていたものなのか、真相は曖昧模糊(あいまいもこ)とした霧の中にある。しかも人事発令4日後の10月9日、大西は蒼惶(そうこう)として東京を去るのである。
途中で台湾沖航空戦の予期せぬ戦闘もあって、大西がフィリピンのマニラに着いたのは10月17日。翌18日、米軍の比島(編集部注:フィリピン諸島のこと)上陸作戦が開始され、捷(しょう)一号の決戦作戦が発令される。大西は19日夕刻に最前線であるマラバカット基地へ赴いた。そしてその夜も、時計の針が20日になろうとする午前零時前後に、下からの盛りあがる力によって、敵艦船に体当りする特別攻撃隊の編成が決定された、ということになっている。
もう少しくわしく書けば、その特別攻撃案を一つの案として、マラバカットにいた第二〇一航空隊の副長玉井浅一(たまい・あさいち)中佐と参謀猪口力平(いのぐち・りきへい)中佐に示したのが、大西中将なのである。
「零戦に250キロの爆弾を抱かせて体当りをやるほかに、確実な攻撃方法はないと思うが……どんなものだろうか」
大西にはなんの命令権も決定権もなかった
これに玉井副長が答えた。
「私は副長ですから、勝手に隊全体のことを決めることはできません。司令である山本栄(やまもと・さかえ)大佐の意向を聞く必要があります」
これにたいして大西中将は、おおいかぶせるように、
「山本司令とはマニラで打ち合わせずみである。副長の意見はただちに司令の意見と考えてさしつかえないから、万事、副長の処置にまかす、ということであった」
と言った。しかし、事実は、マニラで大西は山本司令と会ってなんかいなかった。ということは、大西が完全な嘘をついて、玉井副長に決定的な判断を求めたことになる。
ここで少し前のところを読み直してほしい。大西はまだこのときは南西方面艦隊司令部付の一中将で、なんの命令権も決定権もない。であるから、わたくしは大西中将と書いてきた。第二〇一航空隊を指揮する第一航空艦隊司令長官に正式に任命されるのは、翌10月20日なのである。ならば、玉井副長をだましたりせず、長官になってから大西は正々堂々と話し合えばよかったのである。大西はそれをしなかった。何故なのか。