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軍令部起案の電報文にすでにあった「敷島隊」の名

 ここに一通の興味深い電報が残っている。軍令部の源田実(げんだ・みのる)参謀の起案になるもので、日付は昭和19年10月13日。

源田実

「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ士気昂揚竝(ならび)ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処 各隊攻撃実施ノ都度 純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度(たし)……」

 この電報起案は、大西中将が東京を離れた数日後に、すでにして書かれている。しかも、何ということか、神風攻撃隊の名も決められている。さらに言えば、10月20日に特攻作戦が正式発令となり、大西が名付けたという本居宣長の「敷島の大和心を人問はば……」の歌に発する敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の攻撃隊名も、この電報の中にある。

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 この合致は決して偶然なんかではない。明らかに、体当り攻撃は作戦の総本山軍令部の発案、そして決定によるものであったことを語っている。つまり特攻という非人間的な攻撃の責任は、海軍中央が負うべきものである。大西はその実施命令の発動者になる役割を負わせられて、早々に東京を旅立った。しかし、大西には長官として「命令だけはしたくない」の深い想いがあったと思われる。それが真夜中の、まだ一中将の提案となり、玉井副長への欲せざるごまかし発言となった。

「特攻なんてものは、統率の外道の外道だ」

 明治24年(1891)生まれ、海兵40期、144人中の20位で卒業、頭も決して悪くない。生えぬきの航空屋として山本五十六大将の信頼の厚かった大西は、単なる我武者羅な勇猛、豪胆の士ではない。親分肌の人情家、神経もこまやかであった。そして作戦は九死に一生をもって限度とす、自分ができぬことを命令してはならぬ、そうしたよき海軍魂を身につけた闘将でもあったのである。

山本五十六・連合艦隊司令長官

 それだけに特攻攻撃の生みの親とならねばならぬ自分の立場をのろったと思えてならない。大西長官は、だから、たえずこう洩らしていた。

「特攻なんてものは、統率の外道の外道だ」

 また、副官の門司親徳(もじ・ちかのり)大尉にしみじみ語ったという。

「わが声価は、棺を覆うても定まらず、百年ののち、また知己はないであろう」

 大西の死を聞いたとき、かれを知る海軍航空の関係者は驚きもなくうけとめた。なぜなら、大西中将は戦争に勝っても腹を切ったであろうと、だれもが思っていたからである。

 辞世がある。

 これでよし 百万年の仮寝かな