ノンフィクション作家の清武英利氏は、『文藝春秋 電子版』で連載中の「記者は天国に行けない」で“伝説の記者”の群像を綴っている。その中の一人が、戦中から戦後にかけて活躍した羽中田誠だ。読売新聞の社会部記者だった羽中田が残した“足跡”を紹介する。

流転の人生

 羽中田は3歳で父親を失い、母親とともに東京・市ヶ谷から山梨県に移り住んでいる。ここで少年期を過ごし、法政大学経済学部に入学したものの、2年後に中退して山梨に戻る。そして1930年の奥野田争議など農民運動に参加した。

羽中田誠

 奥野田争議は山梨県東山梨郡奥野田村(現・甲州市)で起きた小作争議である。発端は、凶作を理由に農民側が小作料の引き下げを申し立てたところ、地主が土地を取り上げるために法廷戦に持ち込んだことにある。『山梨農民運動史』(竹川義徳著・大和屋書店)などによると、小作人たちは全農県連合会に応援を求め、

「骨が舎利になっても土地は放さない」

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 と抵抗した。地主側が取り上げた土地に粟の蒔き付けを強行したため、農民たちは鍬や鎌を持って殺到し、17人が検挙された。全農側は近隣から約300人の全農系闘士を集め、赤旗や組合旗を立てて示威行動を展開したという。

 羽中田もその列に加わって駆け回ったのだろう。21歳である。

 そこから流転の人生は加速する。

 31年に山梨日日新聞社に入社し、翌年に読売新聞社甲府支局に転じ、妻を迎えると、またも上京して東京の聯合映画社、旭日映画社と職場を変えた。奥野田争議から10年後の40年には、読売新聞映画部に転職し、翌々年には社会部に移っている。

 さっそく海軍報道班員として、南太平洋の潜水艦基地に従軍を命じられる。それが1年半続いた。

 彼が乗船した伊号第11潜水艦は、オーストラリア沿海の海上交通破壊戦に参加し、5隻の艦船を沈めている。そのたびに敵駆逐艦の執拗な爆雷攻撃に耐え、漆黒の波間に浮上しては蘇生する。喘ぎながらまた潜る。頭上の敵を破滅させようという潜水艦の苦闘を、羽中田は新聞や著書『鉄鯨魂』で生々しく報じた。

「鉄鯨」とは日本潜水艦のことだが、連合軍によって127隻が沈められ、残ったのは52隻に過ぎない。現実は「鉄の棺桶」だったのである。伊11も最後には南太平洋で消息を絶っている。

 だが、羽中田は無傷で棺桶から戻ってきた。

「警官に撲り殺されたのではないか」

 終戦間際、彼の姿は千葉県佐倉市に疎開していた弁護士正木ひろしの自宅にあった。正木は冤罪事件の刑事弁護を引き受け、無辜の人々の救済に生涯を捧げた抵抗人である。

 48歳の彼を一躍有名にしたのは、1944年1月の「首なし事件」であった。それは正木が警察官による拷問死を立証する過程で起こしたもので、羽中田はその真相を取材しているうちに、正木と親しくなったのだった。

 事件の被害者は、茨城県那珂郡長倉村(現・常陸大宮市)にあった長倉炭鉱の鉱夫頭である。賭博の取り調べ中に脳溢血で倒れたとされていた。医師の診断や水戸検事局の結論も病死だ。ところが、石炭採掘場の人々は、

「花かるたに興じた仲間が、前日にも取り調べを受け、警官に棒や素手で殴られて失神したり、厳冬の中に裸で放置されたりした」

「死んだ男は頑健で脳溢血の血統でもなかった。警官に撲り殺されたのではないか」