大正時代は、新聞報道にラジオが加わった
この現象は、大正時代にも引き継がれた。大正天皇はもともと体が丈夫ではなく、1921年11月に皇太子裕仁親王を摂政に任命し、自らは日光、沼津、葉山などで療養生活を送っていた。しかるに1926年10月下旬風邪を引いて病状が悪化。11月3日、宮内省よりはじめてその容態が発表された。
大正天皇の病状は、明治天皇のそれとは異なり、一進一退を繰り返した。国民はこれに一喜一憂させられた。ただ、12月に入ると深刻な状態となり、「御体温」「御脈拍」「御呼吸」などが連日発表されるようになった。先代と同じく、新聞報道は加熱し、自粛ムードが広がった。
大正時代の特徴は、ラジオがここに加わったことである。ラジオはこのころ黎明(れいめい)期のメディアだった。試験放送は1925年3月、日本放送協会の設立は1926年8月。同年度の受信契約数は25万8千余件にすぎなかった。
だが、日本放送協会はこの非常時の報道を新メディアの使命と捉えた。同年12月16日には娯楽演芸番組を中止し、宮内省から直接電話で受け取った数字をもとに大正天皇の「御容態」を放送しはじめたのである。放送は1日何度も行われ、そのたびに天皇の「御体温」「御脈拍」「御呼吸」の数が告げられた。
この結果、都市部だけではなく山間部でも、受信機さえあれば大正天皇の病状を即座に把握できるようになった。25日に崩御が発表されるや、ただちに聴取者が葉山の方角に向かって遥拝(ようはい)するようなこともあったという(竹山昭子『ラジオの時代』)。こうして天皇の崩御は、ラジオによって、明治時代以上に国民的なイベントに変化したのである。
以上の明治・大正の事例は、昭和天皇の「御不例」を強く連想させる。昭和天皇の病状が悪化したときも、宮内庁より連日のように「体温」「脈拍数」「呼吸数」「血圧」などが発表された。昭和の場合、特に新メディアであるテレビがこれらの数字を番組中にテロップとしてカットインしたため、視聴者に大きな印象を残した。歴史的に見れば、これは明治や大正の繰り返しだったのだ。
ただ、昭和天皇の場合、1988年9月19日の吐血から、翌年1月7日の崩御までの期間が長かった。政府や皇太子から過度の自粛は好ましくないとの声明があったにもかかわらず、イベント中止など自粛ムードは長引いた。そのため、仕事がなくなり、自殺した露天商夫婦まで現れてしまった。
今上天皇が2016年8月の「お気持ち」表明において、「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」と述べたことも、特に昭和天皇の事例を想定していると考えられる。
メディアが複雑になった今日、同じような自粛ムードが生じた場合、その影響は計り知れない。同年10月13日プーミポン国王を喪(うしな)ったタイでは、インターネットのウェブサイトなどでデザインを黒塗りするなど、対応が図られた。個々で哀悼の意を示すのは結構だが、日本では「炎上」を恐れる企業が過度な自粛を行う可能性もないではない。
メディアの発達とともに規模を増してきた自粛ムードも、そろそろ見直さなければなるまい。これは本来、今上天皇の言葉を待つまでもなく、国民の間で議論し解決すべき問題だ。今後のため、業界や企業などでルール作りをしておくことが望ましい。