十六、七の頃である。居間の絨毯になにか神聖な物のように置いた赤い装丁の本へ向かって、私は項垂れていた。世間で騒がれるあの文学賞、芥川賞受賞の帯が巻かれた単行本を前にして。

ある女が蛇を踏む。家に帰ると見知らぬ女が女を迎える。藪で踏んだ蛇が、人の姿で女の部屋に棲みついてしまう。読み終えた本を見下ろして私はしばらく途方に暮れていた。不思議な話には慣れていた。むしろ読書する私のからだは不思議な話でなければ受け付けないくらいのもので、不思議な話でないのなら、古典か、殺人か暴力の話でなければつまらない。しかし今読み終えた本の語る不思議は私のからだになぜか不思議な話と感知されず、殺人も暴力もないのに、おそろしかった。蛇が人間になって見ず知らずの母を騙っても何も不思議ではなく不気味でもないということが、おそろしかった。それは生きた体温と粘膜のある人間たちが、食卓に並んだつくね団子やほうれんそうのごまよごしと同じように蛇との暮らしを咀嚼して飲みこんでいる話であり、コップにつがれたビールで喉に流しこめる違和感は私たちが日常において点々と感じながら飲みこんでいる違和感のサイズと変わりがない。と同時に大きな謎でもあった。今ここにある日常の意味を解くことができないように、蛇のいる日常の意味を解くことはできず私は途方に暮れた。「わからない……」リアルタイムの芥川賞受賞作を初めて手にして読み、変幻自在に伸び縮みする謎に打ちのめされた私の裡にはそれ以来、おそろしさと執着が絡みあいながら棲みついた。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2025年9月号

