川上弘美「蛇を踏む」(第115回 1996年上期)

市川 沙央 作家
エンタメ 読書 芥川賞

 十六、七の頃である。居間の絨毯になにか神聖な物のように置いた赤い装丁の本へ向かって、私は項垂れていた。世間で騒がれるあの文学賞、芥川賞受賞の帯が巻かれた単行本を前にして。

川上弘美氏 Ⓒ文藝春秋

 ある女が蛇を踏む。家に帰ると見知らぬ女が女を迎える。藪で踏んだ蛇が、人の姿で女の部屋に棲みついてしまう。読み終えた本を見下ろして私はしばらく途方に暮れていた。不思議な話には慣れていた。むしろ読書する私のからだは不思議な話でなければ受け付けないくらいのもので、不思議な話でないのなら、古典か、殺人か暴力の話でなければつまらない。しかし今読み終えた本の語る不思議は私のからだになぜか不思議な話と感知されず、殺人も暴力もないのに、おそろしかった。蛇が人間になって見ず知らずの母を騙っても何も不思議ではなく不気味でもないということが、おそろしかった。それは生きた体温と粘膜のある人間たちが、食卓に並んだつくね団子やほうれんそうのごまよごしと同じように蛇との暮らしを咀嚼して飲みこんでいる話であり、コップにつがれたビールで喉に流しこめる違和感は私たちが日常において点々と感じながら飲みこんでいる違和感のサイズと変わりがない。と同時に大きな謎でもあった。今ここにある日常の意味を解くことができないように、蛇のいる日常の意味を解くことはできず私は途方に暮れた。「わからない……」リアルタイムの芥川賞受賞作を初めて手にして読み、変幻自在に伸び縮みする謎に打ちのめされた私の裡にはそれ以来、おそろしさと執着が絡みあいながら棲みついた。

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source : 文藝春秋 2025年9月号

genre : エンタメ 読書 芥川賞