映画俳優は、人間の社会生活の新しい可能性を切り開く先導者になるはずだ。ヴァルター・ベンヤミンが1936年に発表した「複製技術時代の芸術作品」という著名な論文の中から、そうした突拍子もない主張を掘り起こした本を、8月に出版した。もっともベンヤミンは、映画俳優が政治的メッセージを主張して社会変革の役割を担うと主張したわけではない。むしろ映画俳優とは、カメラの前で或る役柄を演じるだけで、人間の身振りの未知の可能性を試す役割を担っているというのである。
いったいどういう意味なのか。最初は奇妙に聞こえるかもしれないが、視点を変えて、映画というメディアが大衆社会のなかでどんな影響を与えてきたかを思い出してもらえば、それほど奇妙な主張ではないと納得してもらえるだろう。
卑近な例だが、《煙草の吸い方》という身振りについて考えてみよう。例えば、ハンフリー・ボガートが『カサブランカ』で煙草を吸う場面を見て、大勢の人びとが「格好良い」と憧れて、それを日常生活で真似してみただろう。
つまり人びとが、映画スターの身振りを真似て、自分の日常的な姿を格好良くする術を学ぶということは決して珍しくなかったはずだ。私たちは、格好良い歩き方、ロマンチックな愛の告白の仕方、喧嘩台詞の強がり方など、俳優たちを真似することで、人生を少しでも豊かなものにしようとしてきた。石原裕次郎や高倉健の身振りを人びとがいかに真似してきたかについて私たちは良く知っている。つまり映画俳優は、事実として私たちの日常的な身振りを先導してきたのである。
もちろん私は、こんな馬鹿げたことを正面切って主張したわけではない。『ベンヤミンの映画俳優論――複製芸術論文を読み直す』(岩波書店)と題された拙著は、もっぱら学術書の体裁で、「アウラの凋落」で有名なこの論文を、先行研究を参照しながら読み直そうとしたものである。1930年代の西欧政治史の背景を調べたり、論文を読み難いものにしている断章形式を分析したりして、この論文の中に「映画俳優は私たちの日常的身振りの変革者である」という主張を浮かびあがらせたのだ。
しかしよく考えてみると、現在はベンヤミンの時代とは違って、映画俳優の身振りに憧れるような時代ではなくなったのではないか。むしろ、カメラ付き携帯電話が爆発的に普及して以来、私たちは自らが映画俳優のように、カメラの前で演技する経験を増大させている。インスタグラムやYouTubeを通して、若い人びとは自己を巧みに表現しようと様々な工夫を凝らしているだろう。

もちろんそのほとんどは、自分自身を「盛って」しまった偽りの自己表現になっているのかもしれない。インスタグラムの写真を自己顕示的だと批判するのは簡単なことだ。だがそうだとしても私は、そのような普通の人びとの俳優としての身振りに注目することなしに、この社会の閉塞感を打破できないと思う。
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