鏡と父

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文・嘉島唯(かしま ゆい)
ニュースポータルで働く編集者、ライター。通信会社の営業からGizmodo、HuffPost、BuzzFeed Japanを経て現職。 
Twitter:@yuuuuuiiiii note:yuuuuuiiiii

小一時間の外出を頑なに拒む父

 男性が鏡を見ていると、ナルシストだと揶揄される。そんな話をよく聞くが、なぜ、外見に気を使ってはいけないのだろうか。女の私だって、自分の容姿が好きで鏡を見ているわけではない。「違和感がないか」を確認するために鏡を覗き込む──。

 私が8歳のときに母が他界したあと、父は一人で娘を育て上げた。威張ることも怒鳴ることもなく、寡黙で温厚。襟の硬いワイシャツにスーッとアイロンを掛け、鏡の前でネクタイを締め、ヒゲを剃ってコームで髪の毛を整える。ドトールやベローチェが好きで、よく一人でコーヒーを飲みに行っていた。

 父は「そういう人」なのだと、「そういう人」であり続けると思っていた。

 現在、74歳。定年退職をしてからまもなく10年が経とうとしたある日、父は声を荒げた。

「絶対に家から出ない!!」

 家に殺虫剤をまくために、父に外出を求めたものの、頑なに拒むのだ。ほんの1〜2時間家をあけるだけなのだから、散歩をしたりコーヒーショップで時間を潰すはずだろうと軽く考えていたが、そうはいかなかった。

 なぜ駄々をこねるような振る舞いをするのか? 何が嫌なのだろうか? 私は間違ったことを言っているのだろうか? なぜ、なぜ、なぜ。話が通じない父に苛立ちのメーターが勢いよく上がる。

「お父さん、死んじゃうよ? それでもいいの!? 」と問いただすと、父は「いいよ! そうだよ、死ぬから。死ねばいい」と言い返した。

「死ねばいい」。言葉の強さにショックで固まってしまった。

日曜の夕方、ショッピングモールで

 それから数カ月後、父の洋服に穴が空いていることに気がついた。髪もペタリとしていて毎日洗っているようには見えない。

 父は下着を新調しているのだろうか? 頭を洗っているのだろうか? そんな疑問がふいに湧いた。かつての父にとって”普通”の行為は、今も”普通”のままなのだろうか?

 家にある父の服を確認すると、何年も袖を通していない古びたものが多かった。ほとんどが外に着ていけるものではない。こんなに近くにいたのに私は何を見てきたのだろう。

 思わず父の手を引いて近所に洋服を見に行った。「どれがいい?」「これはどう?」と聞くと、あまり晴れた顔はしていない。しばらく間をおいて「……いらない」と言われた。

「もうあまり長くないから、いい。いらない」

 日曜の夕方、人の声が四方八方から聞こえるショッピングモール。父の小さなつぶやきに、談笑する声も、レジの音も全部が聞こえなくなった。なんて切ないことを言うのだろう。思わせてしまったのだろう。適切な言葉が全く思い浮かばない。半ば強引に試着をしてもらい、4着ほど服を買った。

 力ない言葉は、父が“自分を大切にしていない”ことを私に理解させた。

自己放任という病

「セルフネグレクト」という言葉がある。風呂に入らない、ゴミを溜め込む、食事をとらないなど「一人の人として生活において当然行うべき行為を行わず、自己の心身の安全や健康が脅かされる状態に陥ること」を指すらしい。大きな原因のひとつが「社会からの孤立」だと言われている。

 父も少なからずこの状態なのではないだろうか。

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source : 文藝春秋 2020年6月号

genre : ライフ 働き方 ライフスタイル ファッション