歴史家・磯田道史の「感染症の日本史」第3弾! 日本人は、世界でも類を見ないほどの衛生観念を持つ民族といわれる。実は、歴史を紐解くと、日本人と「疫病神」との間に、ある不思議な関係があった。
磯田氏
『日本書紀』に記された疫病
実は、この国の天皇の王権も、伊勢の祭祀も、はじまりは疫病であった。今日(こんにち)、この国の人々は高い衛生観念をもつ。今回、新型コロナの波を乗り切るにあたっても、その力が大きかった。この不思議な国民の衛生コンピテンシー(行動特性)は、いかに培われてきたのか。歴史をさかのぼって考えておく必要がある。
1700年前から話をはじめる。「実在した可能性がある最初の天皇」は、神武天皇から10代目の崇神天皇とされる。東大古代史の重鎮で、戦後の歴史教科書を編んだ井上光貞も、そういっている(『日本の歴史1 神話から歴史へ』)。はじめて国を治めた天皇「はつくにしらす・すめらみこと(始馭天下之天皇・御肇国天皇)」と、『日本書紀』に記されているのは、神武天皇と崇神天皇(第10代)の2人であるが、神武天皇陵は江戸時代に築造整備されたもの。一方、崇神天皇陵は西暦300〜350年頃の考古学的にも古い古墳(行燈山古墳)がちゃんとある。
この崇神天皇の即位5年目に、とんでもない疫病が日本を襲った。実は、この疫病をおさめる過程で、大和国三輪山のふもとに今日学界で「三輪王権」とよばれる最初の王権が生じている。
『日本書紀』の記述を読もう。「国内に疫病が多く、民に死亡者があり、大半(なかばすぎ)」。なんと、国民の大半が疫病で死んだ。翌「六年。百姓は流離し、叛(そむ)く者もある勢いで、徳では治め難く」なった。そこで、天皇は朝な夕な神に謝罪し祈った。「天照大神(あまてらすおおみかみ)・倭大国魂(やまとのおおくにたま)の2神を御殿内にまつっていたが、天皇は神の勢いを畏れ、共に住まうのは不安」になった。それで、天照大神を娘に託して、御殿の外の笠縫邑(かさぬいのむら)にまつった。
これが「皇居外に皇女(斎宮)が仕えて天照大神をまつる」伊勢祭祀の原点である。
しかし、これで疫病は消えなかった。天皇は悩んだ。すると、三輪山の神「大物主」が、神明倭迹迹日百襲姫命(かみやまとととびももそひめのみこと)にのりうつって、お告げを伝え、天皇の夢枕にも立ちいった。「自分の子孫の大田田根子(おおたたねこ)に我をまつらせよ。国は平らかになる」。そうしてようやく終息した。しばしば、「卑弥呼の墓」といわれる箸墓古墳は、この倭迹迹日百襲姫命の陵墓に指定されている。吉備(岡山県)にも備前車塚古墳という同時期の古墳がある。ここから「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡が11面も出土した。興味深いことに、この古墳の隣には大物主をまつる大神(おおが)神社があり、社伝では「大多田泥古神(おおたねこのかみ)ノ末裔・大神(おおが)朝臣ナルモノ此地ニ転居シ、本社ヲ崇祀」したという。各地で「卑弥呼時代」から伝世した祭器等をつかって、疫病払いが行われたのかもしれない。
渡来人・古墳建造と疫病
邪馬台国と卑弥呼から半世紀ののち、西暦300年頃の崇神天皇5年に、列島で疫病が流行し、国民の大半が死に、その社会不安のなかで、現在の天皇につながる王権と祭祀が誕生した史実をおさえておきたい。
その頃、三輪山麓の纏向(まきむく)周辺には「都市」が生まれていた。日本最初の都市という研究者もいる(寺沢薫『王権誕生』)。それまで牛馬は列島にいなかったが、纏向からは馬具がみつかっているから、大陸との交流がさかんになりはじめていた。さらに、巨大古墳を築造するため各地から人が集められたのも影響しただろう。疫病が流行れば、免疫をもたぬ日本列島の人々は感染爆発がおきて、ひとたまりもなかった。古墳は人々を殺していたのかもしれない。
古代社会は、都市を発展させ、巨大モニュメントを作るが、同時に、感染症の大量死を経験する。紀元前430年、ギリシャでも、アテナイでパルテノン神殿が完成し、戦争のため兵士を集め、籠城戦の準備をした直後、疫病がはやり、大量死がおきた。「病気を惹き起こしたのは田舎から大勢のものを町の中に集めたからである」。「夏だというのに多くの人が一緒にごたごたと小さな家やバラックに詰込まれ」「家畜のように閉じ籠めて互に病毒をうつし合う」。ローマ時代の『プルターク英雄伝』は既に「3密」が感染拡大の原因だと指摘している。この疫病でアテネ民主制の指導者ペリクレスへの批判も高まっている。
その後、日本でも、仏教伝来などもあって、大陸との往来が進むにつれ、たびたび、列島は感染症に襲われた。敏達天皇、用明天皇の兄弟はともに天然痘で崩御した。聖徳太子は用明天皇の子だが父も母も妃も本人も天然痘とみられる疫病で死んでいる。聖徳太子たち「上宮王家(じようぐうおうけ)」は仏教に熱心で「国際派」。疫病に倒されやすかったのだろう。
奈良の大仏を建立した聖武天皇の天平時代は天然痘の大流行期である。律令制度になって中央集権がすすみ、田舎のモノやヒトが都に集められる。天平7〜10(735〜38)年の大流行で100〜150万人、当時の総人口の約3割が死亡したとする研究もある(ウィリアム・ウェイン・ファリス『日本初期の人口・疾病・土地645-900年』)。この大流行で、宴会ずきの藤原4兄弟がそろって病死。聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって、大仏を建立した。
疫病封じの「まじない」
治療薬も、ワクチンもない時代、人は感染症に無力である。そこで、あれこれ疫病封じの「まじない」を考え出した。京都祇園祭も、そうである。今年は新型コロナの感染拡大で山鉾巡行がない。しかし、この祭りでは「蘇民将来之子孫也」と書かれた粽(ちまき)が配られる。粽は一種の護符で、これを戸口に張っておけば、疫病が家内に侵入せぬとされている。なぜかといえば、こうである。その昔、蘇民将来という男が旅人に親切にした。その旅人は、実は疫病を差配できる神で、一宿一飯の恩義を感じ、「おまえの家は疫病から救ってやろう」といって去った。果せるかな、疫病がはやり、大勢が死んだが、蘇民将来の一家は事なきを得た。『備後国風土記逸文』などにある伝承である。それで「蘇民将来の子孫である」と戸口に張れば、疫病にかからない、と信じられた。
私も京都住まいだから、例年、この時期になると、一家総出で、この粽づくりを手伝っていた。しかし考えてみれば、京都人は「自分は蘇民将来の子孫」と思っていなくても、この護符を張っている。相手が疫病神とはいえ、神様に嘘をついている。しかも、子孫であるだけで疫病をも免れる話である。この国には神が「八百万(やおよろず)」もいて、神はカジュアル。嘘が許されやすい。世襲が権利を正当化しやすい。神話学風に分析すると、そんなこの国の特性もみえる。
また、人間が疫神を歓待する↓疫神が人間に感染免除をくれる、という疫病神と人間の互酬=なれ合いの存在も面白い。日本人は疫病神さえ買収してしまうのである。そこには、疫病神に感染免除を期待する「甘えの構造」もあるが、疫病神との「共生」思想もみえる。疫神は怖いが、歓待すれば買収・契約・交流できる「客人(まれびと)」であり、日本人にとって、疫神は仇敵ではなかった。
ワクチンがわりに張り紙
前近代の日本人と疫神との民俗事例を多数検討した著作に大島建彦『疫神と福神』がある。私の職場、国際日本文化研究センターにも「怪異・妖怪伝承データベース」があって、これで日本人が疫病神と、どのように交際してきたかわかる。日本人は、ワクチンがわりに、いろいろな「張り紙」をしてきた。たとえば、山梨県では、赤い紙に幼子の手形を捺して、「吉三さんはおりません」と書いて門口に張り付けた。振袖火事で放火した八百屋お七が、吉三に失恋したまま死んで、風邪の神になり、吉三を取り殺そうと各戸ごとに覗き歩く。この赤紙を張り出しておけば、吉三の手形ではないので、中を覗かずに帰ると信じられていた。
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source : 文藝春秋 2020年7月号