■五十嵐 大
ライター/エッセイスト。社会的マイノリティに関する取材、執筆を中心に活動し、エッセイ『しくじり家族』にてデビュー。2021年冬には2冊目のエッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(仮)を刊行予定。
Twitter:@igarashidai0729
耳が聴こえない子どもになりたい――。思春期の頃、そう思ったことがある。
僕の両親は聴覚障害者だ。母は生まれつき音を知らず、父は幼少期の病気がきっかけで後天的に聴力を失った。ふたりが生きる世界には音がない。一方で、聴こえる僕が生きる世界は音に溢れている。まるで対照的な世界を行ったり来たりしながら、僕は過ごした。
両親以外の家族は、誰も手話を身につけようとしなかった。一緒に住んでいた祖父母も、母のふたりの姉である伯母たちも、誰ひとりとして手話が使えない。
あるとき、祖母が言った。
「手話を覚えても、世のなかでは通用しないのよ」
聴覚障害者にとっての言語が、聴者の社会では意味をなさない。そう考えていた祖母は、家庭内で手話を使うことを毛嫌いしていた。娘である母には口話教育を強いて、母は必死で唇を読む術を身につけた。不明瞭な発声で母が何か訴えかけると、「はっきり喋りなさい」と言うことすらあった。ただし、いくら訓練しても、聴覚障害者が聴者になれるわけではない(もちろん、無理に聴者になる必要もない)。特に生まれつき耳が聴こえなかった母にとって、口話だけでコミュニケーションを取るのは非常に困難なことだっただろう。それでも母は、聴こえないことを配慮せずに話しかけてくる人たちに対し、笑顔を向けていた。
そのとき、母がどれだけ苦労していたのか。僕は察することすらできていなかった。努力で聴こえないことをカバーできるのであれば、母が頑張ればいいだけだと思っていた。想像力の足りない、子どもだったのだ。だから僕は、手話をしっかり勉強することも止めてしまった。
ところが、やがて綻びが生じる。思春期に差し掛かると、母との間にコミュニケーションの問題を抱えるようになったのだ。
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source : 文藝春秋 2021年2月号