刀鍛冶をルーツとする刃物の町から、グローバル市場へ斬りこんだ
深剃りが肌の老廃物を除去する
剃刀の薄い刃先を肌にあて、つつつ、と這わせるとき、ぞくぞくするような恍惚と、えもいわれぬ緊張とに襲われ、やがて一振りして、充足と安堵に満たされる。文明の利器がいかに高度に発達しようと、私たちは、朝な夕な、そのような原始的ともいえる行為を暮らしの営みの一つとして重ねてきた。
世界に冠たる業界トップメーカー貝印の代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)の遠藤宏治も、電気シェーバーを使わず、朝の洗顔のとき、シェービングフォームをたっぷりと塗り、鏡を見ながら自社製の5枚刃の剃刀をゆっくり滑らせる。
「身だしなみを整えて1日のスタートを切る。その神聖な儀式のひとときだと、毎日、思います。たとえ定年退職しても、出社する必要がなくなっても、ひげをきちんと剃るという区切りから1日が始まるのは私にとって変わらないことでしょうね」
写真撮影のため、ほんのわずかな間、求めに応じてマスクを外した。剃り跡が実に青々しい口元と顎は社業を体現するようであった。65歳の精悍な経営者の相貌は、研ぎ澄まされたようでいて、育ちのよさが温かくにじみ出ている。
遠藤によれば、男性の髭は毛髪より太く約0.3ミリあって硬いのに対し、剃刀は1枚0.07ミリでしなるように肌へ直に刃先があたる。そのことによって、髭を剃るだけでなく、肌の表面に浮いた老廃物もこそぐように落としていくので、見た目以上につるりとすっきりとし、健康にもいいそうである。電気シェーバーは網状のプレートで覆われているため、刃が肌に直接あたることはなく、深剃りができず、老廃物を除去する効果は得にくいらしい。
遠藤会長
水と木、土に恵まれた地
なぜ私たちがこのような文化を持つに至ったのかといえば、少なくとも800年以上もの昔の時代までさかのぼらなければ説明にならない。
美濃国の関郷、現在の岐阜県関市は、古くは鎌倉の時代から、日本屈指の刀剣鍛造の地として知られた。
天下を分ける関ヶ原の合戦の場となったように、美濃国は、関東や大坂、尾張といった要衝に交通の便がよく、さらに、水と木、そして土という天然資源に恵まれていたことから、腕のいい鍛冶職人を多く輩出した。とくに名工として誉を得たのが室町時代後期の「関の孫六」で、現在もその名を冠した貝印の包丁のブランド「関孫六」が世界に名を馳せている。
日本三大清流の一つと呼ばれる1級河川の長良川、さらに山は砂鉄や石炭に恵まれ、そして松などの油を多く含む樹々が生い茂って良質な炭を供給し、「折れず、曲がらず、よく切れる」と三拍子そろった鋼の刃を鍛錬した。その名刀が関の代名詞として今日に受け継がれている。
貝印(KAI)グループは、初代の遠藤斉治朗(さいじろう)が地元の尋常高等小学校を卒業後、関のポケットナイフ工場で約8年の徒弟修業を積み、1908(明治41)年、19歳のとき、ナイフ打ちの親方として独立したことを起源とする。国内に比肩する同業他社のない刃物一筋100年超の歴史がここから刻まれるのである。
鎚を振るい、鑢(やすり)で砥ぎつづけて刃物をこしらえていく職人たちは、手の指の関節が曲がったままで真っすぐに戻らなくなるという苛烈な日々の労働をむしろわが誇りとした。
「遠斉(えんさい)さん」と親しまれた初代の遠藤斉治朗は、周囲から「1年を500日にして働いてござる」と敬服されるほどの刻苦勉励の人物であった。主にアメリカ、ドイツからの輸入に頼っていた安全剃刀やその替え刃を国産として初めて作り果(おお)せた立志伝中の人物で、遠藤宏治の祖父にあたる。他社ブランド名での受託製造であるOEM生産にも乗り出し、羽毛を意味する「フェザー」という商標と社名を新たに立て、剃刀とその替え刃を大いに売りまくった。関の町議や市議、さらに商工会議所会頭など、地元の公職をいくつも兼ねる名士となりながら、趣味の囲碁にとどまらず、パチンコ、株式相場と、大博奕に打って出るような山っ気は晩年まで衰えることがなかった。1958年、69歳で病没する。
初代の遠藤斉治朗に子どもはなく、縁戚の兼松繁が養子に入って第2代として跡を継ぐことになった。やはり尋常高等小学校を終えると、養父母とともに油にまみれて剃刀の製造に明け暮れていた繁は、長じて、市場を開拓中の北海道へ支店を新設するべく営業活動に赴くたび、名産の帆立貝に何かのヒントを見い出さんとしていた。貝殻は、古代、貨幣としても使われていた。その姿、形は、流麗で美しく、刃物としても用いられていた。なにより、貝は誰かに危害を与えることをしない。貝の英語表記「SHELL」は自らの出生名「繁(しげる)」の音にも通じる。ここに、第2代の遠藤斉治朗によって、「貝印」という商標が新たに定まるのである。
遠藤宏治は、穏やかな面差しで淡々と「苦労人であっただけに、父には、徳というものがあったのではないかと思います」と話した。
「2代目の遠藤斉治朗も、祖父と同様に小学校を出ただけで最初は丁稚奉公で働き始めました。祖父は日本でいちばん最初に国産の剃刀を作った人で、職人肌だったといえます。父は初代譲りの職人のセンスも持ちながら、お取引先を大切にして、その国産の剃刀をいかに売るかという商人の才覚に富んだ人で、この父子の努力が2代にわたって組み合わさって、いまのKAIグループの礎を築いたのではないかと思います」
刃物の町に立つ貝印の工場
一貫した製造販売へ転換
2代斉治朗は、やはり関で鋳造会社を営む経営者の娘で“ミス関”にも選ばれた才媛の久子と結婚する。下請け工場や取引会社を介することなく、代理店の協力は得ながら、剃刀や爪切りの製造販売を一貫して手がける近代企業への転換を図っていった。2代斉治朗は、全国各地でスーパーが急成長し、商流の大きく変わる時代に巻き込まれながら、安売り競争にさらされたり、金物問屋グループに敵視されたり、さらには古参の幹部社員に独立されたりと、安定した品質の商品の供給面でも資金繰りの面でも苦労が絶えなかった。裕福な家に育ち、それなりの財産と結納金を持って嫁していた久子は、金策に困り果てる夫の窮状を見かねて、預金通帳を黙って差し出すなど、まさしく内助の功で支えた。夫から贈られたエンゲージリング以外すべての宝飾品も手放したという。現在の主力である小屋名(おやな)(関市)工場の元となった敷地は、久子の助力なくして購入することが叶わなかったといまも社内に伝わる。
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source : 文藝春秋 2021年9月号