ベストセラー翻訳家「売れる翻訳の作法」

巻頭随筆

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『2030年 すべてが「加速」する世界に備えよ』『NO RULESノー・ルールズ 世界一「自由」な会社、NETFLIX』などヒット作に恵まれ、最近「ベストセラー翻訳家」などと持ち上げられることが増えた。翻訳という仕事は人のふんどしで相撲をとるようなところがあり、いつもばつの悪い思いをする。

 ただお粗末な原書が翻訳によって名著に化けることはなくても、お粗末な翻訳で名著が駄作になることはいくらでもあるので、原著者の足を引っ張らないように心がけている。

 書籍の翻訳者なら英語の原書が読めるのは当たり前。絶対的な差がつくのは日本語力だ。ビジネス書の翻訳で私に強みがあるとすれば、日本経済新聞の記者時代に身につけた記事を書く技術だろう。大切な心得は2つある。

 1つは相手の言葉ではなく意図をくみ取ること。新聞記事の文字数は限られており、長めのインタビューでも語り手の言葉を一字一句は載せられない。相手の言わんとしたことを過不足なく、その人らしい言い回しは残しつつ、話し言葉を少し品のある書き言葉に置き換えていく。

 書籍の翻訳に文字数の制約はないが、英単語をそのまま日本語に置き換えても商品にはならない。経営思想家ジム・コリンズ氏の最新作『ビジョナリー・カンパニーZERO』には、リーダーシップの定義を語るくだりで「it's not a science; it's an art.」という表現があった。アメリカの作家が好んで使う対語で、すなおに訳せば「リーダーシップは科学ではない、芸術だ」になる。ただ芸術とすると選ばれし者の特別な活動のようで、それは著者の意図とは異なる。ここでは「リーダーシップとは万人に共通の原理ではなく、個人が創意工夫しながら身につけるもの」と伝えようとしていると判断し、次の訳を付けた。「リーダーシップとはサイエンス(理屈)ではなく、アート(技能)だ」。

 2つめの心得は、こむずかしい言葉を使わないことだ。記者時代、優れた経営者は難解な言葉を使わず、誰にでも理解できるように話すものだと知った。語彙で優秀さを誇示する必要を感じないのだろう。

 たとえばアサヒビール中興の祖と呼ばれた樋口廣太郎氏を、浅草の本社で取材した帰り際。応接室の出口まで私を見送りながら樋口氏はこう言った。

「あなたね、短い記事を書いて満足していたらいけない。本を書きなさい」

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source : 文藝春秋 2022年4月号

genre : ライフ ライフスタイル