神田神保町の旭化成本社におもむいて、顧問の吉野彰氏にお会いしてきた。吉野氏は、しばらく前から次の日本人ノーベル賞最有力候補者として、名前があちこちであげられている。
何をした人なのかというと、リチウムイオン電池を開発した人である。電池といえば、ちょっと前まで一般の人が知る電池は、昔ながらの乾電池と鉛蓄電池(自動車用)、それに時計用の水銀電池ぐらいだった。最近急に多くの人が使いはじめたのが、リチウムイオン電池(携帯電話もスマホもカメラもノートパソコンもその他もろもろの携帯電子機器のたぐいすべてがそうだ)。二十世紀末から二十一世紀にかけて登場した世界の新しい文明の機器のほとんどが、リチウムイオン電池によって動かされている。リチウムイオン電池は現在世界で年間十億個以上が生産・使用されている現代社会の基本的エネルギー源だ。それはすでに自動車、航空機にまで入りこんでいる。その基本特許を持っているのは旭化成である。
といって、ノーベル賞のほうは、まだ決ったわけではないし、リチウムイオン電池が生まれる過程には多くの人がかかわってきたから、ノーベル賞委員会の見立てによって、具体的な受賞者の名前に多少のちがいが出てくるかもしれない。しかし吉野氏の名前がリストから脱けることがあろうとは思えない。グローバル・エネルギー賞(ロシア)、チャールズ・スターク・ドレーパー賞(アメリカ)など、ノーベル賞に並ぶ賞を吉野氏はすでに次々受賞している。
現在使われている形のリチウムイオン電池の原型を開発したのが、吉野彰氏であり、その基本的仕組みも、基本的製造上のノウハウも、すべて特許にしてしまったので、旭化成は、かつては東芝と共同出資の会社を作って自ら電池を製造販売していたが、いまは電池に関してはもっぱらライセンス商売と基幹部品の製造販売で儲けている。
先日、日本経済新聞社が、毎年恒例の「主要商品・サービスシェア調査」を発表した。リチウムイオン電池の項を見ると、一位がパナソニック、二位がサムスンSDIと世界的電機メーカーである。しかし、基幹部品のリチウムイオン電池向けセパレーターでは旭化成が圧倒的トップシェアを保持している。セパレーターというのは、電池の中で電解液という化学反応の中心的担い手の陰(マイナス)極側と陽(プラス)極側がまじり合うのを防ぐためにさし込まれているプラスチック製境界板のこと。このセパレーターには、ナノメートル単位の微細な穴が無数に空いており、その穴を通して特定のイオンが通過したり、通過しなかったりする。それがうまくいかないとリチウムイオンが結晶となって析出し、ついには過熱して発火する。デル社のノートパソコン発火事故、サムスンのスマホ発火事故、ボーイング787の発火事故など、リチウムイオン電池関連の発火事故のほとんどはこのセパレーターの不具合に起因している。つまりリチウムイオン電池の生命線はこのセパレーターにある。ここが技術的に最もむずかしく、利益率も高い。旭化成はそこをしっかり今も自分の手で握っている。
吉野氏の話を歴史をさかのぼって聞いていくと、このリチウムイオン電池の根っ子には、日本の技術の粋、化学研究の伝統がドンとあることがわかってきた。
吉野氏は、福井謙一(一九八一年ノーベル化学賞受賞者)の孫弟子を自称している。大学は福井が教授として教鞭を執っていた京都大学工学部石油化学科。福井研に入って直接教えを受けたわけではないが、福井のフロンティア電子論の強い影響を受けて、あらゆる物質の結合や反応などをすべて分子の電子軌道の変化から考えていく、一種の考え方革命を起こした世代の中心人物。吉野氏に大きな影響を与えたもう一人が、二〇〇〇年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹氏(ポリアセチレンという導電性高分子の発見者)。アセチレンという有機化学の代表的分子に触媒を入れたら(実は研究員が白川の指示をまちがえて千倍高い濃度の触媒を入れてしまった)、それがたちまち光り輝く金属光沢を持つフィルムになり、電気も通すようになったという驚異的現象の発見者である。
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source : 文藝春秋 2017年08月号