50万点もの標本や観察記録を残し、数多の新種の発見や命名などによって「日本の植物学の父」と呼ばれた植物学者・牧野富太郎(1862〜1957)。彼の生涯を『ボタニカ』に著した作家の朝井まかて氏がその“異能”をつづる。
幼い胸に抱いた“好き”を生涯貫いた、大きな才能だった。
自然児が大きくなったようなものだから、立身出世や金は生きる目的にならない。研究に必要なものは古書から洋書、稀覯書まで、値を気にせず買い集める。なにしろ土佐のいごっそう、青年時代から世界を見ていた。由緒ある素封家であった実家の身上は潰れ、大借金生活に突入した。
妻子は大変だ。家計は常に火の車、子供が遠足に行けない。お弁当を作る米がなかった。本人はハイカラな洋装に蝶ネクタイ、珈琲が好きで豆を挽いて客に振る舞うが台所には砂糖がなかった。54歳の大正5年には借金3万円になったという。
勤める大学内でも騒動が絶えなかった。序列など気にせず研究成果を発表する、教授の論文でも平気で誤りを指摘する、教室の資料を返さない。傍若無人だ。
それでも彼が潰されなかったのは、当時の社会にはいわば“物狂い”の学者を受け容れる懐の深さがあったのだろう。夢を託したのかもしれない。己が信じることにのみ誠実で、100年後役に立つか立たぬかわからないことに夢中になる。そんな生き方をどうかして貫いてくれ、と。
富太郎はやがて理学博士の学位を受け、命名した植物は2500超、作成した標本は40万にも上った。植物学を民衆に広く開いた功績も大きい。同好の士を集めて植物採集を行ない、『牧野日本植物図鑑』を刊行し、高校生とも親しく交わった。珍しい植物を差し出されると即座に名を答え、「◯◯県の◯山のふもと、◯◯道を西に折れた水際に生えとる。固有種だね」と目を細めた。
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source : 文藝春秋 2023年1月号