私にとって菊池寛は、まず第一に、小学校の国語の教科書で読んだ「入れ札」という短編の作者でした。博徒・国定忠治の逃避行に従(つ)いていく者を選ぶための入れ札で、自分の名前を書いてしまう九郎助という年かさの子分のお話です。人間の心が生み出す卑小と高潔、嘘と真実、正直と欺瞞、偽りがはらむ悲しみをつぶさに描いており、半世紀前の小学校四年生にはかなり重たい小説だったようにも思えますが、だからこそ、一読忘れ得ぬ記憶が刻み込まれたのでしょう。
その後、中学生になってからだったと思いますが、日本史の小ネタを集めた楽しい本で、文豪・菊池寛は機嫌が悪いとまわりの誰とも話をしなくなり、何日もむっつりと黙りこくっているので、
「それじゃ〈きくちかん〉じゃなくて〈くちきかん〉だ」
親しい友人に、そうからかわれることがあったというエピソードを知りました。
これが事実なのか、たとえばベートーベンにまつわるいくつかの有名なエピソードのように、著名人の人となりを表すものとして後世に創作されたものなのか、私には判断がつきません。ただ今回、第七十回の菊池寛賞の受賞が決まりましたよ――というご連絡をいただいたとき、しみじみと思い出したのが、この「くちきかん」でした。
何というタイミングか、私は人生初の全身麻酔による手術を受けるために、病院に入ろうとしているところでした。こう書きますと大事ですが、前歯の奥の嚢胞を除去し、厄介な深い場所に埋もれている親知らずを抜くという、やや大がかりではありますが歯医者さんが施してくださる手術ですので、命には別状ありません。それでも初めてのことなので、私はビクビクおどおどしておりました。
幸い、プロ中のプロの先生方、看護師さん、薬剤師さんのチームにご尽力いただきまして、手術は予定通りにすんなり終了。あと二時間もすれば起き上がって着替えもできる――という段階で、しかし、私は(うわぁ)と思いました。
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source : 文藝春秋 2023年2月号