『開高健の本棚』は、この作家の内なる世界がどれほど広く深かったかを物語っている。サルトルの『嘔吐』からピカレスク小説の傑作『大列車強盗』、果ては役者、殿山泰司の奇書『日本女地図』まで、その関心領域は無限大だった。一群の書籍は開高健を挑発し、鬱屈した日々から救い出し、「精神の美食家」にして「大食家」とした。
「私の内部には何人もの人間が住んでいて、それぞれ趣味も要求も異なるので、いまは誰が声をあげているのかを誤たずつかまなければいけない」
ヘディンの『さまよえる湖』を読みかえしたい――開高健の内なる声がそうせがむと、ウィスキー瓶を傍らに寝床にもぐり込み、西域に旅立っていった。
「ふつう行動の人は現場で感情を食べつくし、後方にはそのメニューぐらいのものしか持ち帰らないものであるが、この人は料理そのものを皿にのせてホカホカのままで持ち帰って頁にしてくれる」
探検家ヘディンの文章を「端正、精緻、柔軟」と評し、何年おきかに堪能して鮮烈を覚えたという。
北欧生まれの探検家が西域を目指し、さまよえるロプ・ノール湖の謎を解き明かす端緒となった最初の旅に出て半世紀後、ラマ教の修行僧に扮した西川一三が西域へ旅立っている。さらに秘境チベットに潜入し、エベレストの峰々を縫ってインドと往き来すること11度に及んだ。徒歩で企てられた隠密行は、日本の敗色が濃くなった43年に始まり、敗戦をまたいで8年に及んだ。沢木耕太郎はそんな密偵に心惹かれ、インタビューを重ねて『天路の旅人』を著わした。
帝政ロシアの影が極東に伸びるなか、陸軍士官の軍服を脱ぎ捨て「露探」となったのは石光真清だ。アムール川の畔に潜んで後に『城下の人』を遺した。明治の密偵と昭和のそれは対極に位置している。石光には諜報報告をしかと受け止める統帥部があり、貴重なインテリジェンスは日露戦争に活かされた。だが、西川の諜報報告は国家の上層部に届いた形跡すらなく、辛苦の末に帰り着いた祖国から臨時嘱託の職を解かれてしまう。西川がやり遂げた「グレート・ゲーム」に着目し、その果実を摘み取ったのは英国秘密情報部とGHQの諜報部門だった。
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source : 文藝春秋 2023年2月号