なぜ文豪は、汽車を憎みつつ愛したのか
夏目漱石の「草枕」にこんな一節がある。
〈人は汽車へ乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車ほど個性を軽甫したものはない〉
だが漱石が汽車嫌いだったと思うのは早計のようだ。漱石の小説に、汽車や市電がしばしば登場することには気づいていたが、本書を読むと、漱石がいかに頻繁に汽車旅をしていたかにあらためて驚く。
東京に近いところでは御殿場線、横須賀線、甲武鉄道、総武鉄道。北に目を向ければ、東北を走っていた日本鉄道や長野へ向かう信越線。西なら関西の私鉄や山陽鉄道。そして九州鉄道に伊予鉄道。漱石が乗った路線を、著者は当時の時刻表を片手にたどる。
ロンドンの地下鉄にも乗りに行くし、旧満州と朝鮮半島の紀行文「満韓ところどころ」のルートも追いかける。そして、作品はもとより、日記や手紙、漱石の研究書、当時の旅行案内書、風俗史や戦史までを縦横に引いて漱石の旅を再現するのだ。
へえっ、と思うエピソードがいくつも出てくる。たとえば明治42年、ハルビン駅で暗殺された伊藤博文との縁。2人はごく近い時期に満州に行っており、漱石が帰路についていた頃、伊藤は大陸に向かっていた。
〈帰るとすぐに伊藤が死ぬ。伊藤は僕と同じ船で大連へ行って、僕と同じ所をあるいて哈爾賓で殺された。僕が降りて踏んだプラトホームだから意外の偶然である〉(寺田寅彦宛て書簡より)
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source : 文藝春秋 2020年7月号