著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、山折哲雄さん(宗教学者)です。
戦争に負けたとき、私は旧制中学二年だった。それ以前は東京の墨田区に住んでいたが、三月十日の東京大空襲を機に一家はふるさとの岩手県花巻にある小さな寺に引き揚げることになった。父はその寺の住職でもあったからである。
冬は大雪が地上を埋め、夏はきれいな青空に爽快な風が吹いていた。本堂の屋根はトタン張り、家族の住む庫裏はカヤブキで、それをつなぐ渡り廊下のはずれに旧式の便所があった。夜中に起きてそこまで行くのが嫌だったが、あるとき、便所の脇にしゃれた灰皿がポツンと置かれているのに気がついた。
可愛らしい少女がまっ白な陶器のスカートを広げて坐っている。それが煙草の吸い殻受けになっていたのだ。眺めているうちにふとひっくり返すと、尻の割れ目のあたりが露出していて、そこに小さなネズミが一匹身をくねらせていた。
オヤジがどこかでみつけて手にいれていたのだろう。いつもひとりで楽しんでいたのが、今度は息子を驚かせてやろうとの魂胆だったのかもしれない。今から思えば不思議なことだがオヤジはそのことを口にしなかったし、私も話題にすることはなかった。
オヤジは法事や葬儀をのぞけば布教のため旅に出ていたが、ヒマなときは親戚の碁敵を相手に碁を打っていた。よほど気が合っていたのだろう、「あっ」とか「待った」とかいいながら、日がな一日背中をみせて別人のような恰好で遊んでいた。
やがて、夏の季節が近づく。するとオヤジの身辺がにわかに活気づく。朝顔づくりで忙しくなるからだ。玄関先から、回廊をへて本堂の前面まで、大小さまざまの鉢植えを並べ、水をやったり枝を切ったりととのえたりしている。
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source : 文藝春秋 2023年5月号