「人生を決めた本」とのお題をいただいたからには、哲学書、あるいは東西の古典を挙げて、見栄を張りたいところではある。
実際、クラウゼヴィッツの『戦争論』など、戦争や軍事の歴史を研究・論述することをなりわいとするわたくしに大きな影響を与えた本がないわけではない。さはさりながら、毎日の暮らしに即して考えてみると、そうした書物が「人生を決めた」というのはどうも実感にそぐわない。
井上ひさしは「市民」よりも、地に足のついた概念として「生活者」の概念を提唱した。わたくしも、この言葉を広く解釈させてもらった上で、観念的な自分ではなく、「生活者」大木ナニガシをつくった本について述べることとしたい。
まずは池波正太郎の『池波正太郎の銀座日記[全]』(新潮文庫)(ここで示す本の著者はすべて、私淑(ししゅく)する方々であるから「先生」と奉りたいが、みな他界して歴史的存在となられているため、敬称略とする)。わたくしに、おとなの人生の楽しみ方を教えてくれた書物である。
日々銀座を訪れ、映画や演劇を楽しむさまを描いていくその筆致は、一見、身辺雑記にすぎないかのように思われるかもしれない。
だが、個々の作品に寄せる寸評は厳格な美意識に裏打ちされ、直接・間接に触れる世間の事象への処断は自ら定めた掟(コード)を毛ほども動かしはしないのだ。
池波は、けんめいに楽しむためにけんめいに働き、けんめいに働くために観て、食って、飲む。
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source : 文藝春秋 2023年5月号