二月十一日の正午近くになって発表された一つのニュースが、たちまち世界中に広まった。ローマ法王ベネディクトゥス十六世が、自発的に引退すると公表したからである。時を置かずに各国のリーダーたちのコメントも発表される。勇気ある決断とか何とか、総じてお座なりのもので占められていたが、なにしろローマ法王は、十二億ものカトリック教徒にとっては、「パパ」(父)と呼ばれる羊飼いである。羊でもある信者にしてみれば、政治家や企業の社長でもあるかのように、これも「世代交代」の例、と言って済ませられる話ではない、と思ったとしても無理はなかった。
その同じ日、ローマには珍らしい強風が吹き荒れ、雨が敷石をたたき、ときおり雷までが空を突き刺す夜になった。テレビの画面は、今や主(あるじ)が空席になってしまった聖(サン)ピエトロ大聖堂を映し出していたのだが、そのドームの最上部を稲妻が直撃したのだ。しかも、避雷針がよほど強力なのか、近くの稲妻までもすべて集めたというように、雷光は太く長く、しばらくは突き刺した形で留まったままだった。
これが中世だったならば、年代記作者たちはいちように、「神さまが同意していない証し」、と書くところである。しかし、あれからは八百年が過ぎている現代でも庶民の想いならば変わらないのか、翌日のイタリアのメディアは、聖(サン)ピエトロ大聖堂のドームの頂天に突き刺さる雷光の写真で埋まったのである。
私は、キリスト教徒ではない。と言って無神論者でもないが、大らかな多神教のほうが好きなので厳格な一神教とは肌が合わない。それで、信者にとっては一大事ではあってもあくまでもカトリック教会内部の問題なのだから、高見の見物をきめこんでもいいわけだった。それが、考えこんでしまったのである。
すべての地位、すべての職業は、老齢ゆえに後進に道を譲る、でよいのだろうか。それとも、ある種の地位、ある種の職業には、死ぬまで、そこに留まりつづけやりつづけることが求められるのか、と。
私個人は、世代交代にも若者の登用にも大賛成だ。だがその一方で、死ぬまで十字架を負いつづける人、もあるべきではないかと思っている。キリスト教徒でなくても、死ぬまで、その占める地位に伴う責務を果しつづけることは、十字架を背負っていることと同じである。
それなのに、ドイツ人の学者の法王は、自発的に十字架から降りたのだった。ポーランド人で学者的ではまったくなかった前法王のヨハネス・パウルス二世は、意地悪な人ならば老害と断じたにちがいない無惨な姿をさらしながらも、ローマ法王のままで死んだのである。
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source : 文藝春秋 2013年4月号