イタリアの悲劇

日本人へ 第126回

塩野 七生 作家・在イタリア
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 消費が冷えこむとは、かくも怖ろしいとは知らなかった。イタリアはこの二年、厳しい緊縮政策のおかげで深酷な不況にあえいでいる。

 かつてのイタリア人は、家族べったりと笑われるくらいに、家族を大切にする国民だった。だから、親が子を殺したり子が親をめった切りにしたりするような事件は、ほとんどと言ってよいくらいに起らなかったのである。政府は信用しなくても家族は信用するという感じで、国旗も、赤白緑の三色旗のうえにファミーリアと大書きされたものであるべきと言われていたくらい。それが今では、親と子や夫と妻の間に起きる家族内の殺生沙汰が、連日のように報道されるようになった。

 失業者、短期の非正規、もともとからしての未就業者、といういずれも安定した職がないということでは共通している人々が、二十代に留まらず四十代にまで広まったからで、この人たちが狭い家の中で顔をつき合わせるがゆえに増えた現象なのである。それで家庭内殺生も、貧しい家にばかり起る。

 学校を出たら就職し、親から離れて独立し、クリスマスや夏のヴァカンスのときだけ家族全員が顔をそろえる、というのがイタリア人の生活だった。それが、クリスマスでもなく夏休みでもないのに、家族は常に顔をつき合わせる状態になってしまったのだ。子供が小さい頃は、同居していても占有する空間ならば小さいから、狭い家でも気にならなかったにちがいない。それが四十男や三十女になっては、しかも職がないので稼ぎもなしとなっては、気にさわる存在になるのは当然である。それに、普通の人間にとって自尊心を維持するのは、職を通じてなのだ。それを拒絶されたのを忘れるために麻薬に走り、ゲーム賭博に手を出すようになる。それに要するカネは、親にせびるしかない。

 以前からイタリアには、「カッサ・インテグラツィオーネ」という名の機関がある。辞書では「労働組合の給与補填基金」と訳しているが、足りなくなると国庫から補填しているから、実態は国による失業中の給与保証機関である。景気が悪化すると経営者は従業員をここに入れる。反対に上向くと従業員を呼びもどすので、景気悪化中は労働者をプールしておくのが、この基金のもともとの目的だった。かつては日本の労働法学者たちが大変に誉めた制度だが、私はその頃からすでに、経営者のモラルハザードになると見ていたのである。それでも右肩上がりの時代は、まあまあ機能していた。ところがそうでなくなった今、この基金に送られても呼びもどされる可能性無し、が常態化しつつある。しかも、いつまでも「カッサ」にいられる保証はない。

 大企業に何十年も勤めてきた父親が、今や「カッサ・インテグラツィオーネ」中。母親は、夫が失業するとは思ってもいなかったので専業主婦のまま。大学まで出した息子は、就職氷河期の犠牲になって職が見つからない。未就職がつづいていると、経験者を求める求職からも遠のくばかりで、もうハローワークにさえも足を向けなくなった。同じく大学を出た娘は教職を望んでいたのだが、正規がなく非正規。毎朝二時間もかけて地方都市に行き一日二時間の授業を週に二日引き受けているのだが、それでもらう給料では独立などは夢。

 これが、イタリアの労働者一家の、悲しいまでの現実である。口にしたちょっとした言葉が言われた側を深く傷つけるようになる。かつてイタリアの殺人は恋愛沙汰で起っていたのが、貧しさと将来への不安と自分もふくめた人間全般への怒りで起るようになってしまったのである。そしてこの悲劇の原因は、イタリアの企業が労賃の安い国に行ってしまったためにイタリア内の職が減少したことにもあるが、イタリアの事情によるところも大きいのだ。

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source : 文藝春秋 2013年11月号

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