有機合成新時代

日本再生 第25回

立花 隆 ジャーナリスト
ライフ 社会 サイエンス

 二〇一〇年のノーベル化学賞受賞者、根岸英一博士(科学技術振興機構・米国パデュー大学)を迎えて、自然科学研究機構(分子科学研究所)主催のシンポジウム「分子が拓くグリーン未来」が、一ツ橋の「学術総合センター」(一橋講堂)で開かれた(三月二十日)。午前十時から夕方五時半までビッチリのプログラム。化学の広い分野を代表する八人の研究者たちが次々に登壇して、さまざまの角度から化学技術の夢のような未来像を語ってくれた。

 この日のシンポジウムのタイトル「グリーン未来」は、根岸さんの発想からきている。日経新聞「私の履歴書」で根岸さんはこう書いている。「最近よく『グリーンケミストリー』という言葉をお聞きにならないだろうか。簡単に説明すれば『化学物質による環境汚染を防止し、人体や生態系への影響を最小限に抑えることを目的にした化学』となる」

 二十一世紀は化学の時代である。いまや我々の生活をとりまく大半の物質が化学工業が生み出す人工物質になりつつある。しかし、これまでの化学工業は公害時代のイメージから、しばしば環境破壊の元凶のごとくいわれてきた。だがそれは、化学の技術力を向上させることで方向を逆転させられ、とびきりのグリーン技術にもっていけるということなのだ。

 モノ作りの基本技術そのものを、低エネルギーで環境負荷が小さいタイプのものに変えていけば、現代産業社会のネガティブな側面は一挙に縮小するはずという。根岸さんはいま、科学技術振興機構の総括研究主監だ。「低エネルギー低環境負荷モノづくり社会」を実現するための「先導的物質変換技術の創出」プロジェクトの推進役だ。これは根岸さんがこれまでやってきた研究と同じタイプの技術(先進的触媒開発)を産業社会全体に広めるということでもある。根岸さんのノーベル賞は、「パラジウム合金を触媒に使った有機合成法=根岸カップリング」に対して与えられた。パラジウムを触媒に使うことで、これまで実現不可能とされてきた有機合成反応(炭素=炭素結合)を次々に実現させたことが高く評価された。根岸カップリングで実現する炭素=炭素結合は、あらゆる有機物の骨格となる。これは世界で最も広く使われる有機合成技術の核だ。根岸さんと同時にノーベル賞を受賞した鈴木章博士の鈴木カップリングも、有機合成の世界で最も広く使われている技術の一つだ。実は、根岸、鈴木以外にも日本には、有機合成の世界で、〇〇カップリング、〇〇反応などの形で、個人名付きでよばれる技術が沢山ある。日本は世界に冠たる有機合成王国なのだ。

 現代社会においては、自然物をそのまま利用することはほとんどない。何らかの意味で、その製造と流通の過程で有機合成化学が大きくかかわっている。自然物にいちばん近い農産物においてすらそうだ。農薬と肥料なしには現代の農業はまったく成り立たないが、これは全部有機化学工業の産物だ。衣食住のすべてにおいて事情は同じだ。

 どれほど多くの化学物質を我々は使っているのか。世界的な登録機関であるCASに登録されている化学物質は二〇一三年三月二十五日現在、実に七千百二十万件だ。化学物質は、毎日毎日新しいものが新規登録され、一日平均一万五千件ずつリストは増大している。その大半が、基本的に有機合成化学物質だ。かつて有機物は生物にしか作れないと思われていたが、一八二八年にヴェーラーがはじめて尿素を合成して、有機合成化学の道を開いた。一八九二年にはじめて有機合成化合物のリストが作られたが、その数は約六万件だった。CASの登録は一九六五年からはじまったが、最初の一千万件まで二十五年かかった。しかし今は毎日一万五千件増えるから、次の一千万件まで二年足らずだ。この急速な発展に大きく寄与したのが、先にあげたような日本人有機合成化学者たちが開発した技術だった。ノーベル賞受賞後の記者会見で、根岸さんは、今後の研究の方向を問われて、人工光合成の研究をやりたいと答えた。今回のシンポジウムでも人工光合成の研究に力点が置かれた。

 根岸さんは、シンポジウムの予稿の中でこう書いた。

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source : 文藝春秋 2013年5月号

genre : ライフ 社会 サイエンス