四十年前からパリに住み、欧米の映画・演劇・オペラ・CF・ビデオクリップなどの業界で、世界を股にかけた活動をつづけている特殊メーキャップ・アーティストのレイコ・クルックさんがこのほど本を出した。日本では必ずしも知られていないが、フランスでは政府から芸術文化勲章(日本の文化勲章みたいなもの)を受けた(二〇一一年)ほどの著名人。
本のタイトルは『赤とんぼ』(長崎文献社)。昆虫の赤とんぼではない。あの戦争の時代、日本中の空を舞っていた赤塗りの訓練用練習機の俗称。木製の骨格に帆布ばりの翼をつけた軽量二人乗り複葉機。エンジンは三百四十馬力、最大速度二百十キロ。
昭和十四年、長崎県諫早市のレイコさんの家のすぐ近くに、逓信省航空局航空機乗員養成所ができた。十二~十九歳の少年を生徒として受け入れ、民間パイロット養成が目的だった(同様のものを全国十五カ所に設置)。しかし戦争が厳しくなった昭和十九年以降、海軍に接収され大村海軍航空隊所属の軍の養成所になった。さらに昭和二十年五月以降は、第五航空艦隊に編入され特攻作戦の一部をになわされた。レイコさんの父親が養成所の村の村長だったため、レイコさん一家と養成所の職員・生徒との間に交流が必然的に生まれた。当時十歳のレイコさんは、養成所の内部を非公式に見学させてもらったり、「赤とんぼ」にちょっと同乗させてもらって、空から家の周辺をながめたりした。レイコさんにとって、「赤とんぼ」に乗ったことは一生忘れられない夢のような体験だった。
『赤とんぼ』は、小説仕立てではあるが、書かれていることは、ほぼありのままの事実。レイコさんは、少女の目を通してあの時代(一九四五年前後)の歴史を語りたいと思ったという。なかんずく書きたいと思ったのは、いまなお耳の底に残っている二つの悲鳴。一つは、養成所が特攻兵の養成に乗り出し、いよいよ明日出征ということになった十八歳の生徒の出征祝いの宴があった晩のこと。酒に酔いすぎて、外に出てきた生徒は、レイコさんがものかげから見ているとも知らず、腹巻きから写真を取り出した。
「家族の写真だろうか?/じっと見つめていた青年が声を押し殺してすすり泣きはじめた。/一瞬、青年の息づかいがピタッと止まって静寂がきたと思う間もなく、/ヒ~~~~ッ/と笛のような音が、部屋の空気を引き裂いた。/この悲鳴は人の体のどこから出るのか? 桂子(レイコさんのこと)の鼓膜を突き抜け胸にとどめを刺した。/青年は額を壁にぶちつけて慟哭しはじめた。/漆喰の壁が鈍い音を立てた」
この八月四日に、長崎でレイコ・クルックさんを迎えて『赤とんぼ』の出版記念シンポジウム「『戦争と人間』を考える」が開かれ、私もパネリストの一人として招かれた。するとそこに全く思いがけないことに、『赤とんぼ』の舞台である諫早航空機乗員養成所に生徒として在籍していたという大田大穰氏(現在長崎市の晧臺寺住職)が出席しておられ、その貴重なお話をうかがうことができた。大田氏は、その頃特攻志願を問われていたら戦争の大義を信じていたから志願していただろうという。しかし戦後は大学に入り直し(京都大学哲学科)、卒業後は同大学院を経て永平寺に入り、曹洞宗の僧となった(現永平寺顧問)。
大田氏によると、『赤とんぼ』に書かれていることは、みな実際にあった話だという。『赤とんぼ』によると、このことがあったのは、一九四五年五月。沖縄にはすでに連合国軍が上陸していた。それを迎え討つ日本側は「陸海軍全機特攻化」を決定し、陸海軍それぞれに連日の特攻攻撃を繰り返した。この特攻作戦全体が、楠木正成の旗印にちなんで菊水作戦と名付けられ、第一号(四月六~十一日)から第十号(六月二十一~二十二日)まで波状的に行われた。五月といえば、菊水作戦の五号、六号、七号、八号が展開されたピークの月である。その間に動員された海軍特攻機は五号が百六十機。六号八十六機。七号百七機。八号五十一機に及んだ。この頃からまともな飛行機が足りなくなり、全国から練習機が動員されるようになっていた。諫早から行った赤とんぼもその中に入っていた。沖縄で組織的な戦闘が終った六月二十三日以後も、赤とんぼによる特攻はなおもつづいた。最後の特攻攻撃の戦果は、歴史上七月二十九日の赤とんぼによる駆逐艦「キャラハン」の撃沈だったとされるが、これは宮古島を飛び立った七機の赤とんぼによるもので、その中に諫早養成所の先輩もいたという(大田氏談)。
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source : 文藝春秋 2013年10月号