近く公開になる「ハンナ・アーレント」という映画のマスコミ試写に行ってきた。内容が重い映画で、エンドマークが出てもしばらく立ち上がれなかった。
最終場面でのハンナの授業が圧巻だ。八分間にも及ぶハンナの反論スピーチと学生たちとの丁丁発止のやりとりが見事だ。近頃評判の××教授のハーバード講義のようなショー的要素は一切ない。直球勝負で中身の濃さは数倍上。立ち上がれなかったのは、頭の中で彼女の言葉を反芻する時間が必要だったからだ。
ハンナ・アーレントといえば、『全体主義の起源』(一九五一)で、一躍世界的に有名になった二十世紀後半を代表する政治哲学・人間哲学者。ナチズムとスターリン主義と、二十世紀を支配した二つの恐怖政治機構を、「全体主義」の一語で一くくりにした。二つの社会は、よって立つ政治的イデオロギーこそちがえ、統治技術的には、どちらもパワーの基盤を秘密警察と強制収容所に置く、恐怖政治的専制支配体制だった。歴史をたどると、広大な植民地を軍事力と警察力で専制的に支配した十九世紀のヨーロッパ帝国主義も同根で、すべては全体主義なのだ。
映画は、ハンナ・アーレントのもう一つの主著『イェルサレムのアイヒマン』にまつわる話。一九六一年、アルゼンチンでモサドに逮捕されたアイヒマンはイスラエルの首都エルサレムで公開裁判にかけられる。ハンナはドイツ生まれのユダヤ人。戦時中パリにいてシオニズム運動に身を投じた。ドイツ占領下では強制収容所に抑留された。脱走してアメリカに亡命したが十八年間無国籍状態だった。ナチズム研究者としてぜひ裁判を見たいと思い、雑誌「ニューヨーカー」と交渉して派遣レポーターになる。
「あのアーレントが傍聴記録を書きたいと」「『全体主義の起源』の著者だぞ」「今世紀最も重要な本だ」。交渉はただちに成立。ハンナはエルサレムに向う。
アイヒマンが凶悪な悪の権化(「メフィスト」)であるかのようなイメージをふくらませていたハンナは、防弾ガラスの檻の中で淡々と証言をつづけるアイヒマンを見て、チッポケな小官僚的言動(責任はすべて命令者の上司にあり自分は命令を執行しただけ。責任なし)にショックを受ける。「凶悪とは違う。違うのよ」「不気味とは程遠い、平凡な人」「どこにでもいる人。怖いほど凡人なの」「彼はメフィストとはちがう」。
その印象を正直に綴った傍聴記「イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」は、大反響(囂囂たる非難の嵐)を呼び起した。なぜアイヒマンのような平凡きわまりない人物があれほど残虐な罪を犯せたのか。それは彼が何も考えなかったからだ(無思考が最大の特性)。小官僚たちが無批判に命令を受け取り、命令されたことをその通りに実行することだけに熱中した結果として、システム全体がとてつもなく巨大な悪の執行機関となってしまった。現代社会に巣くう巨大悪出現の謎を追求した論文が、アイヒマンを「命令に従っただけの凡人」と免罪するのが目的の論文と受け取られた。同じ論文の中で、ハンナはユダヤ人社会の長老たちがナチスに協力して、誰を強制収容所に送り、誰は送らないのかの名簿作りにたずさわったことを批判した。「ユダヤ人指導者たちのこの役割は、ユダヤ人にとっては疑いもなくこの暗澹たる物語全体の中でも最も暗澹とした一章である」。長老たちの協力がなければ、ホロコーストの犠牲者もあそこまで多くならなかったろう。こう書いたとき、アメリカのユダヤ人コミュニティ、とりわけユダヤ人が多いニューヨークにおいて、ハンナは「同胞を軽蔑するナチスの擁護者」のレッテルを貼られ、ボロボロに叩かれた。多くの長い付き合いのある友人たちも次々に離れた。その一人が、最終場面で教室に最後まで残って、「今日でハイデガーの愛弟子とはお別れだ」と告げるハンス・ヨナス(高名な生命倫理学者・グノーシス思想の研究家)。二人はマールブルク大学の同窓生。『存在と時間』の執筆と講義をはじめていた絶頂期のハイデガーの相弟子だった。二人はナチスに傾きかけていたハイデガー(後に入党してナチスに忠誠を誓いフライブルク大学長に)に愛想をつかして共にドイツを離れた。ハンナはパリでシオニズム運動に身を投じ、ヨナスはイギリスに向い英軍ユダヤ旅団の一兵として戦争が終るまで戦った。しかし戦争が終って故郷に帰り発見したことは、母親がとうにアウシュヴィッツで殺されていたということだった。そういう背景事情を知ってみると、「我々は大虐殺の共犯なのか? ドイツ人は君を裏切ったんだぞ。君も殺されていたかもしれない。移送の担当は君の親友アイヒマンだ」のヨナスのセリフも別の響きをもって聞こえるだろう。
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source : 文藝春秋 2013年11月号