ある出版人の死

日本人へ 第135回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 社会 読書

 つい先日、粕谷一希(かずき)という名の一出版人が世を去った。八十四歳の死であったから、今の若い人たちには「という名の」としないと通じないかとそう書いたが、単なる編集者ではなく出版人としたい人である。出版という手段を駆使して、当時の思想界の動きを変えようとした人でもあった。敗戦後長く日本の言論界を支配してきた観念的理想主義に抗して、同じく理想主義でも現実的な視点に立つことの重要さを、数多くの才能に書かせることで日本に広めようとした人である。

 彼が舞台にしていたのは『中央公論』で、当時のこの雑誌の販売部数は十五万もあったというから、名実ともに日本のオピニオンリーダーであったわけだ。いかに「質」が良くても「量」が充分でないと、つまりは適度にしろ読まれないと、影響力は持てないのである。福田恆存(つねあり)、永井陽之助、山崎正和、高坂正堯(こうさかまさたか)、萩原延壽(のぶとし)、この人々が、現実的理想主義の旗手たちであった。

 この一事こそが粕谷一希の最大の業績と思うが、これに対する正当な評価はいずれ誰かがするにちがいないので、ここではごく内輪な話に留める。なにしろ、福田先生を除いた全員が、若いのは三十代に入ったばかり、年長者でも四十代という若さだった。これが、当時言われた「粕谷学校」である。ただ、学校と言っても粕谷さんが主宰するからには厳粛な雰囲気などは薬にしたくもなく、話されるテーマはまじめなものなのに常に笑いに包まれながら進むという具合で、年に二、三回しか帰国しない私には実に愉しく、それでいてためになる集いだった。プラトンの『シンポジオン』をまねてかどうかは知らないが、いつも美味い料理と酒つきであったのはもちろんだ。

 あるとき、永井陽之助が言った。「アメリカで聴いたジョークなんだが、世界で四つ存在しないものがあるというんだ。アメリカ人の哲学者、イギリス人の作曲家、ドイツ人のコメディアン、日本人のプレイボーイ。これでは日本の外交が上手く行くはずもないよね」。まったく同感だ。プレイボーイとは、最少の投資で最大のリターンを得る才能の持主であり、日本の外交担当者は、常にこの逆であったのだから。

 別のときに永井さんは、柔構造社会について話してくれた。「柔構造」を辞書は、剛性よりも弾性と安定性を主とする耐震構造で、経済や社会上でも、硬直的でないがゆえに弾力と復元力の強い構造、と説明している。

 このときの永井さんの話は、その後も長く私の頭から離れない。『ローマ人の物語』を書いているときも、古代のローマは柔構造社会であったのか、と考えつづけた。なにしろ、国会に当る元老院での演説の冒頭は常に、「建国の父たちよ、新たに加わった者たちよ」で始める国であったのだ。こうなると、そのローマの社会構造はいつ頃から硬直化して行ったのか、また硬直化の原因は何であったのか、も考えたくなるのは当然である。

 粕谷学校での私は最年少で一人だけの女の子でもあったので、ほんとうのところは相手にしてもらえないときのほうが多かった。それでも彼らは私に、からかうという感じでも忠告は与えてはくれたのである。

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source : 文藝春秋 2014年8月号

genre : ニュース 社会 読書