アタラクシアへ

日本再生 第43回

立花 隆 ジャーナリスト
ライフ サイエンス テレビ・ラジオ ライフスタイル

 NHKスペシャルで、ほぼ半年かけて作った「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」を放送した。かなりこむずかしい内容であったにもかかわらず、約一一%と高い視聴率をあげた。

 放送したあとしばらく、見知らぬ人に呼び止められて、番組の話をすることが何度もあった。「見ました」とか、「面白かったです」といった反応ならどんな番組でも放送直後によく聞く。しかし今回びっくりしたのは、「ありがとうございました」とお礼を丁寧にいう人がお年寄りの女性を中心に何人もいたことだ。テレビに出たあと、このような形でお礼をいわれるのは、はじめての経験だった。どこがそんなによかったのかなと思って、家に帰ってもう一度見返してみた。結局、エンディングのあたりだろうと思った。年をとればとるほど、誰しも、自分が死ぬときはどういう風に死ぬんだろうということが気にかかってくる。私のように七十代半ばまでくると、小学校の同窓会でも中学高校の同窓会でも、毎年のようにの歯が欠けるがごとく、同窓生が死んでいく。新聞の訃報欄を見ても、自分より若い人がどんどん死んでいく。自分の順番もそう遠くないだろうと自然に思うようになる。しかし医療技術が進んだ今日、医者のいうことを普通に守っているだけで、本当のお迎えが来るまで、結構時間がかかるものらしい。覚悟はとっくにできているが、放っておいても、まだまだ生きるらしい。厚生労働省の平均余命表によると七十五歳の男子は平均あと十二年生きて八十七歳まで生きるのだ。私の父も母も九十五歳すぎまで生きたが、最晩年の生きざまを思うと、自分はあそこまで生きなくていいと思う。

 しかし、そうは思っても、お迎えがこないことには、なかなか死ねない。かといってじゃあ自分から進んで死ぬかといえば、それだけのエネルギーはもう残っていないし、そうする理由もない。結局、人間最晩年になると、もうこれ以上生きていなくてもいいやと思いつつ、それでも自分から進んで最後の旅に出る気にもなれない、ある種の優柔不断さの中で生きつづけることになる。その根源にあるのは、最後の旅の中にどうしても残る一定の未知なる部分への不安感だろうと思う。

 あれだけあの番組のお礼をいう人が多かったということは、その未知なる部分への恐れをあの番組のエンディングがあらかた取り去ってくれたということを意味しているのではないか。

 具体的には、ケビン・ネルソン教授との語り合いや、レイモンド・ムーディ博士との語り合いなどを通じて、最後の旅の本当の中身は最後までわからないものながら、人間誰にとっても死ぬと言うことはそれほどこわいことじゃない、おそらく眠りにつくのと同じくらいの心の平静さをもって死ねるはずだというエンディングのメッセージに共感をもたれた人がそれだけ多かったということではないのか。あのエンディングで、エピクロスのアタラクシア(心の平静)という言葉をひいたところ、「快楽主義のエピクロスでエンディングかよ」という知ったかぶりのコメントをするブロガーもいたようだが、アタラクシアのエピクロスは、快楽主義、享楽主義、美食主義の極みにある人と一般に解されているエピクロスとは対極にある(同一人物だが、彼が考える人生の究極の目的、哲学の究極の目的はアタラクシアのほうにある)。

 あの番組では、時間が充分になかったので説明不充分になり、わかりにくい部分が他にもあるので、若干説明を加えておく。たとえば冒頭で、奇妙なヘルメットをかぶる部分が出てくる。あれは脳研究の世界では「神のヘルメット」と呼ばれている脳磁場励起装置である。パーシンガー博士というカナダの研究者が発明したヘルメットで、ヘルメットの内側にソレノイド・コイルが沢山ついていて、そこにコンピュータでコントロールされた電流を流し、弱い局所回転磁場を与えて、脳のシルヴィウス溝のあたり(超常体験をもたらすといわれている)を刺激する装置である。これまで千人の被験者をテストし、八割の人が何らかの存在を覚知したという。ある人々は身辺に人間の存在を感じ、ある人々は、神的(神さまないし天使)あるいは霊的な存在を感じたという。場合によっては臨死体験に近い現象を体験した人もいるという。しかし、何も感じなかったという人もある程度いる。私の場合は後者だった。内臓が動いたり、足の筋肉がピクピクしたりはしたが、途中からスースー寝息をたてて眠りこんでしまった。一定のパーセンテージで、そういうことも起きるそうだが、私自身は、自分も神的存在を感じられるものなら感じたいと思っていたので、何も感じられずに終ってガッカリした。

 カロリンスカ研究所の実験は、テレビの画面からはわかりにくいかもしれないが、私はすっかり欺された。視覚はゴーグルを通して見せられる一〇〇%のニセ視覚情報しか見られない。足をさわる視覚情報と触覚情報が完全に同期していたから、両者同一と思い込んだ。あとからタネ明かしの装置を見せられ、仰天した。感覚入力を完全コントロールされたら、人間を欺すなんて簡単だと思った。

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source : 文藝春秋 2014年11月号

genre : ライフ サイエンス テレビ・ラジオ ライフスタイル