「保育園落ちた日本死ね」を知って

日本人へ 第158回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 社会 政治 働き方

「保育園落ちた日本死ね」という無記名の発言をめぐって日本中がざわめいていると知ったとき、気持ちはわかるが論理の飛躍のしすぎだと感じたのである。でも、すぐに思い出した。一昔前の日本で政府が言い出した「所得倍増」のときも、私はまだ学生だったが両親は、論理の飛躍のしすぎでほんとうに実現するのかしら、と話していたことを。

 だがあのときは、倍増と言われてその気になった国民全体の努力によって、予期していた期間よりも早く実現したのである。あの一言をきっかけに、日本は高度成長に向けて急上昇し始めたのだから。数字の向うには常に人間がいるということを、実証してみせたのだった。

 しかし、言葉ひとつで気分がプラスに向うという日本社会の真実は、言葉が変わればマイナスの方向に急降下しかねない、ということでもある。もしも日本の現代史を書く外国の歴史家がいるとすれば、日本の衰退が決定的になったのは「保育園落ちた日本死ね」からであった、と書くかもしれないのだ。素朴な愛国者である私には、いくら何でもこんなことで、と承服できないのである。それで、言葉としてはなかなかに出来のよいこの一句を、どうすればプラスの方向に向けることができるかを考えた。

 ここに、二人の人間がいる。二人の前には、パンが一つある。このパンを二つに割って、正確に同量ずつ分配することは可能だ。だが、二人の人間の頭の中(つまり能力)を合わせたうえで二等分することは、絶対に不可能である。

 種々様々な人々が集まって共生するのが人間社会だが、これらの人々も三種に分かれると思っている。

 一番目は、「機会」さえ与えれば生産性を発揮できる人たち。割合は、社会全体の一割程度。

 二番目は全体の八割前後で成る人々で、この人たちは「安定」を保証されることで生産性を発揮する人々。

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source : 文藝春秋 2016年7月号

genre : ニュース 社会 政治 働き方