左翼の教条主義が戦後の論壇を縛り続けた
「転向」という言葉がある。日本の言論空間では、極めて限定的に、権力の弾圧や強制によって、マルクス主義、共産主義、社会主義などの左翼思想を放棄することを意味してきた。そして、それは人間として倫理に反する行いとみなされ、転向した者は深い罪の意識に苛まれてきたのである。しかし、転向という概念のこのような規定や、転向=悪という価値判断は、全面的に正しいのだろうか。私はそこに重大な詐術が働いているように思っているのだが、今回と次回は「転向」の意味を一度解体して、日本の近現代史のなかで大胆に再考してみたい。
昭和8(1933)年、獄中にいた日本共産党の幹部の佐野学と鍋山貞親が「共同被告同志に告ぐる書」という転向声明を出す。これは、佐野と鍋山が当局に宛てた転向上申書を、2人の希望によりその要旨をまとめた声明として獄内外に発信するという経緯を辿った文書であった。「共同被告同志に告ぐる書」は、『文藝春秋』と『改造』の同年7月号に全文掲載され、この時代の思想潮流に大きな波紋を投げかける。この声明は次のように始まっている。
《我々は獄中に幽居すること既に四年、その置かれた条件の下において全力的に闘争を続けると共に、幾多の不便と危険とを冒し、外部の一般情勢に注目してきたが、最近、日本民族の運命と労働階級のそれとの関聯、また日本プロレタリア前衛とコミンターンとの関係について深く考ふる所があり、長い沈思の末、我々に従来の主張と行動とにおける重要な変更を決意するに至つた》
ソ連共産党を中心にしたコミンテルンが領導する革命路線とは手を切り、日本の民族的伝統に基づく変革運動に邁進することを決意しているのだが、要するに、自分たちはこれまでの共産主義運動からは撤退するということを明らかにしている。
徳田と志賀による糾弾
同時期に獄中にいた共産党幹部の徳田球一、志賀義雄、国領五一郎、杉浦啓一らは、佐野や鍋山の転向を批判した。以下は終戦後の昭和21(1946)年2月に徳田と志賀が時事通信の記者に語り下ろし、昭和22(1947)年に2人の共著として刊行された『獄中十八年』(時事通信社)によるものだが、彼らは佐野と鍋山の転向を以下のように「裏切り」として激しく指弾しているのである。
《かれらは出たい出たいの一心から、党よりも自己を中心にものをかんがえた。それが根本的なあやまりだった。だから敵は個人的利益を提供し、佐野も鍋山も、三田村(四郎)も高橋(貞樹)も、すっかりこの手にのり、党をゆがめ、党をほろぼす道具につかわれてしまった》(徳田球一、カッコ内引用者)
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source : 文藝春秋 2023年11月号