小学生の時、囲碁教室に通っていた。先生は関西棋院のプロ棋士で、のちにトッププロとして活躍する人たちが周りにいた。漫画『ヒカルの碁』のヒットによって、2000年代前半に囲碁ブームが起こったが、私が囲碁教室に通っていたのは1980年代の話で、周りがファミコンに夢中になる中、私は囲碁の段位を上げることに熱を入れていた。もう碁を打たなくなって30年以上たつが、それでも形はしっかりと覚えていて、時折、プロの棋譜を並べて楽しんでいる。棋力はそれほど落ちていないのではないかと思うが、どうだろうか。
子供の頃、私が好きだった手に「秀策のコスミ」がある。これは江戸後期に活躍した本因坊秀策が好んだ手で、彼自身が「碁盤の広さが変わらぬ限り、この手が悪手とされることはない」と言ったとされる。私が碁を習った頃には「スピードが遅い」「ぬるい」と言われ、あまり打たれなくなっていたが、私はひそかにこの手の形の美しさに魅かれていた。普段は標準的な布石を打ったが、時折、魔が差したように「秀策のコスミ」を打つことがあった。
庭先でくつろぐ野良猫は、一見すると安心しきって休んでいるように見えて、何かあったときに瞬時に対応できるよう、足の一部に力が入っている。「秀策のコスミ」には、この野良猫のような「平穏の中の緊張」があり、私はその絶妙のバランスが好きだった。
忘れられた手になっていた「秀策のコスミ」だが、実は近年、プロ棋士の間でにわかに打たれるようになり、復活を遂げている。きっかけは、はっきりしている。AI囲碁の登場である。
2016年にグーグルが開発した「アルファ碁」が世界のトッププロに勝利をおさめると、AIが打つ手に注目が集まった。プロ棋士たちがこぞってAIを参考にしはじめると、数々の布石が衰退し、定石にも大変革が起こった。
そんな中、非常に興味深い現象が起こった。AI囲碁が江戸時代の棋譜に残る「古碁の手」を打ち始めたのである。その代表が「秀策のコスミ」であり、これをきっかけに、江戸の手が見直されるようになった。
なぜ江戸の手がAIによって復活するのか。近代以降の定石は部分的折衝に焦点が当てられてきた。しかし、碁盤は19×19の目によって成り立っており、盤面は思いのほか広い。勝つことを目的とするAI囲碁は、常に全局的な判断をするため、部分的には「損な手」でも平気で打つ。近代以降の狭いアルゴリズムにとらわれておらず、むしろ、江戸のコスモロジカルな知性と呼応し、近代の常識を挟み撃ちしてくる。
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