『燃えよ剣』を読む、のつづき

日本人へ 第244回

塩野 七生 作家・在イタリア
エンタメ 読書 歴史
 

 明治四(一八七一)年末の撮影という、米国経由でヨーロッパに向う途上の岩倉使節団を写した写真がある。真ん中に写っている正使の岩倉具視だけは頭もまげ姿の和装だが、その両脇に坐っている副使の大久保利通も木戸孝允も、断髪でシルクハットを手にしての洋装。

 この使節団の当初の目的は旧幕府が結んだ諸外国との不平等条約の改正にあったのだが、それが容易にはムリとわかったとたんの変わり身は早かった。欧米諸国の現状視察に切り換えたのだから。この時期の大久保は四一歳。かつては桂小五郎で今では木戸孝允の年齢は三八歳。三〇歳でいまだチョコマカ時期の伊藤博文さえも、この三人の背後に立つ姿ながら写っている。しかし、生きていたら三六歳になっていた土方歳三は、この二年前に箱館の五稜郭で、死地を求めるかのように死んでいた。

 五稜郭ではともに闘った榎本武揚のように、武器を捨てて投降することもできなかったろう。捕われた後に切腹することも許されず、後ろ手に縛られた姿で首をはねられた近藤勇と同じ最期は、土方には耐えられなかったからだと思う。

 ダーティワークを託した側は、徳川慶喜でも松平容保でも生きつづけることはできた。だが託されたほうは、簡単に捨てられる。このような例は西洋の歴史でもいやというほど見られるのだが、と言って託した側が、その後も長く延命できた例もない。やはり汚れ役は、自分でやるべきなのだ。すべての責任は、たとえ不評であろうと自分一人で負うべきなのである。司馬先生でも徳川慶喜に筆が及ぶたびに、慶喜は知識人であったとくり返されている。だが、知識人であることが誇りであり、そのうえ朝敵になりたくないのなら、大学の先生でもやっていればよいのだ。将軍、つまり最高司令官などには就いてはならない。

 鳥羽伏見でも、江戸での彰義隊も、会津も東北も五稜郭でも、まだ三一歳と若い慶喜は逃げに逃げただけ。恭順を示すなんて隠れみのにすぎない。江戸開城をめぐっての西郷隆盛との対決に、年齢は上でも幕府内の地位は低い勝海舟を送るに至っては、総大将の資格ゼロ。敗れたとはいえ配下にあった人々、これには江戸に住む庶民も入るが、その人々の今後を配慮するのは、トップ中のトップに課された責務である。

 末期の徳川幕府は、少数の人材は残ってはいても、組織としてはもはやつぶすしかない状態になっていたと思う。公武合体説が現実化しないで消えたことは、日本のためには幸いであった。

『燃えよ剣』も下巻に入ると、土方歳三の日常も一変する。活躍の舞台も武州の田舎から花の京都に移り、新選組のナンバー2として有名人になったことで。年頃も、三〇に近づきつつあった。

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source : 文藝春秋 2024年1月号

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