二、三年前からイタリアでも、日本の大衆文学の伊訳本が出版されるようになった。まずは「日本のジョルジュ・シムノン」と銘打った売りで出始めた、松本清張の推理小説の五、六作。
そして今年から出し始めたのが司馬遼太郎。こちらのほうの売り文句だが、日本ならば「国民作家」でケリがつくところなのに、イタリアにもダンテからマンゾーニまで国民作家はいる。それでイタリアの読者に対しての売りは、「日本人が最も愛した作家で、その生涯で書いた作品の総発行部数は二億に達し、しかも売れただけではなく、文学賞から勲章まで総ナメにした人」となっている。とはいえ伊訳は初めてだから、一番手は『燃えよ剣』。両先生とも、日本での初出からは六十年が過ぎての伊訳。
いわゆる大衆文学よりも純文学のほうがけっこう早く外国語に翻訳されるけれど、それは純文学だと売れるからではない。漱石・鷗外・芥川は別にしても、いわゆる純文学の場合は、大学で日本文学を専攻中の学生たちにとって、研究論文のテーマに適しているからである。論文の審査をするのは現役の教授たち。つまり、純文学を研究してきたからこそ教授になれた人々だから、論文のテーマを司馬遼太郎にするというだけで、その論文の出来不出来には関係なく、評価がガタンと落ちる可能性は大。という理由もあって、松本清張は日本での発表から六十二年後、司馬遼太郎も五十九年後の伊訳出版になったのだろう。以下に述べるのは、それらを読んでの私の単なる感想。まずは清張から。
『Tokyo Express』が表題なので、原題はと見ればローマ字で『Ten to sen』。かの有名な『点と線』を、私は初めて伊訳で読んだのである。文章は上手い。原文が上手く書けていれば翻訳もやりやすくなる見本という感じ。ところが私は、推理小説という形式自体になじめないときている。
一度試しはしてみたのだ。歴史小説と明記した『イタリア・ルネサンス』の四巻で。あの時は考えた。私ごときが考えるトリックは推理小説好きならばすぐにも見破るだろう、読者に見破られないためにはどうしたらよいか、と。到達した結論は実に簡単。書く私がその時点ではまだ、犯人を誰にするかはわかっていない、ということ。いかに推理小説好きでも、作者がわかっていない犯人では予想しようもないではないか。
というわけで第一巻でも第二巻でも、殺人は早くも冒頭で起る。それでもよくしたもので、話が進むにつれて、推理的には鈍い私でもわかってくるので終りまで持っていけたのである。
だがやはり推理小説の書き手ではないことは自認するしかなく、三巻目からはこの試みは捨てた。以後も推理小説を読むときは犯人探しはしないことにしたので、推理小説でも普通の小説と同じに読むくせがついたよう。そうしたら、ヘンな疑問がわいてきたのである。
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