今年7月にお目にかかったとき、三井住友FG社長の太田さんに「いまは朝何時ころ出社しているんですか」と尋ねると、
「5時ころに起きて、7時には出社していますね。僕はショートスリーパーなんですよ。あまり寝なくても大丈夫なんです」
社長になる人はやっぱり馬力がちがうと感心して聞いていると、面白いエピソードを話してくれました。
「家が千葉ですから昔は仕事で夜遅くなって終電を逃してしまうと、赤坂の中国人がやっている飲み屋に行ってソファで寝ましてね。仮眠してから始発で千葉まで帰り、シャワーを浴びて着替えて、それから会社に行きました。
ある時、人事部に『太田が赤坂のいかがわしい店に通っている』という話が持ち込まれて(笑)。同期の人事部のやつを連れて行って、『ちゃうよな』って店を見せたこともありましたよ」
銀行員には珍しい武勇伝に思わず笑ってしまいました。あとから聞くと、この頃にはすい臓がんの治療を始めていたそうですが、そんなそぶりはみじんも見せませんでした。亡くなったのは11月25日、突然の訃報でした。
太田さんに初めてお目にかかったのは2020年6月。コロナ禍の真っただ中に企業の現場で何が起こっているのか、経営トップに連続インタビューする企画でした(「『貸し渋り』など絶対にしない」同年8月号)。
このときは行内の若手に起業させて、9つの会社、9人の社長が生まれたという話から、「もし失敗しても、評価でバツを付けることはしません。ただ、失敗しそうなら、早く言ってくれと。無理だと思ったら早めに見切りをつけてほしい。教訓は次に生かせばいいんだから」と話していたのが印象的でした。
太田さんは、銀行経営者には珍しく、エリートの集まる経営企画部の出身ではありません。若い頃に自ら手を挙げてプロジェクトファイナンスという新しい事業にチャレンジし、その後ストラクチャードファイナンス営業部長、投資銀行統括部長として実際にお金を稼いできた人。商売で儲けるにはリスクに近づく必要があることを知っていました。銀行ではいわゆる「本流」ではありませんから、元部下からは、「経営の真ん中にいた人ではないので、副社長になって初めてこの人社長になるのかもと思った」と聞いたことがあります。
読書家でもありました。コロナ下でおこなわれた先ほどのインタビューでは「机にドーンと積み上がったままになった本を乱読した」「宮城谷昌光さんの中国の歴史小説が好きなんです」と話していました。昨年5月号では、その宮城谷昌光さんと「『三国志』乱世のリーダーに学ぶ」と題して対談いただいています。
このとき太田さんは宮城谷さんにこう語っています。
「我々金融界はまさに時勢の大きな変化に晒されています。これまでのような貸出や決済といった銀行機能に安住することなく、自ら『脱銀行』へシフトしていかないと生き残れない。社長に就任して以来、『カラを、破ろう。』の一言だけで経営してきました」
経営者にも慎重な人、近寄りがたい人がいます。しかし、太田さんは洛星高校、京都大学と関西出身の商売人らしく、どんな機会も逃さず、活かそうという雰囲気を大きな体から醸し出していました。「カラを、破ろう。」は、銀行業務の担い手が変わりつつある時代を生き抜かねばならない行員を鼓舞するための掛け声でしたが、太田さんの人となりもよく表しています。
この秋には、本誌連載の「同級生交歓」に京都の幼稚園の幼馴染と登場していただくという話も進行中でした。歴史ある名物企画ですが、高校や中学の同級生に登場いただくのがほとんど。「幼稚園は珍しい」と編集部でも話題でした。「太田も楽しみにしています」という話も三井住友FG関係者から伝わっていました。
その矢先の訃報。享年65。三井住友銀行の歴代経営者と付き合ってきた金融ジャーナリストの浪川攻さんは、「いまの銀行業界は人材が乏しいけど、太田純だけは惜しいよね」と評していました。
私は亡くなった人に「早かった」とは言わないようにしています。若い人も高齢まで生きた人も、その人なりに充分生きたと考えたほうが供養になると思うからです。太田さんは銀行員としても、経営者としても、とことん仕事をやり切った人であることは間違いありません。
太田さん、お世話になりました。ご冥福をお祈りします。
(編集長・鈴木康介)
source : 文藝春秋 電子版オリジナル