私、時代小説作家佐伯泰英は出版人岩波茂雄と建築家吉田五十八(いそや)が共作して建てた小さな惜櫟荘(せきれきそう)の番人を務めています。相模灘の海と空を眺める惜櫟荘をなぜ私が所有しているのかと思われる読者諸氏もおられるでしょう。
一九九八年、ノベルスで細々と出版界に縋っていた私は、最後の一社から、「もはやうちでは本は出せません」との引導を渡されました。呆然としていた私に編集部長が「アンタに残されたのは官能か時代小説だね」。いえ、注文ではありません。だが、私はこの言葉に縋って、時代小説文庫書下ろしというスタイルで執筆し、あちらこちらの出版社に持ち込みました。なんと幸運なことに二〇〇二年に刊行した『居眠り磐音 江戸双紙 陽炎ノ辻』がヒットしました。
出版バブルは一九九六年が頂点です。書籍・雑誌を合わせて二兆六五六三億円の売り上げがあったとか。以後、ネット社会の拡大やスマホの普及もあって二〇一三年には三五パーセント下落したそうな。それでも書籍新刊の出版点数は二〇〇八〜〇九年まで増え続けたのです。この微妙な出版界の状況が私に惜櫟荘を所有させたといえます。
私が熱海の海の傍に仕事場を構えたのが二〇〇三年です。近くに岩波家の別荘・惜櫟荘がありました。この別荘の管理人が刊行されたばかりの『広辞苑 第六版』を手に、「私どもこの地から退去します」と挨拶に見えました。初めての出会いから五年後のことです。格別に親しい付き合いをしていたわけではありませんが、読み物作家を同業の士と考えられたのでしょう。この前年、私は年間十四冊の文庫書下ろしを刊行していたので、派手な暮らしと思われたか。
惜櫟荘が不動産屋に買われて潰され、マンションなどが建ち、仕事場から海が見えなくなることを私は惜しみました。大胆にも「惜櫟荘と敷地、いくらでしょう」と尋ねたのです。持ち金すべて叩けば買えるかもしれない。だが、そのあと、どうなるかと悩んだ末に熱海の仕事場と東京のマンションを担保に買うことにしました。となると我武者羅に仕事をするしかない。ひたすら文庫書下ろしというスタイルでほぼ毎月刊行しました。「月刊佐伯」と評された毎月刊行に固定の読者がつきました。こうなると勢いです。ひたすら書き、書店の店頭に毎月新刊が並びました。
一方、惜櫟荘の状態をとくと調べてみて呆然としました。確かに小粋な家ですが手入れが全くされていない、忌憚ない表現ならば「ただのぼろ家」ということになりましょうか。岩波茂雄と吉田五十八の名がなければ即座に壊されていたでしょう。ううーん、手入れをしてみるかと、吉田五十八の関わりの建築家を探すことにしました。すると直弟子の建築家板垣元彬(もとよし)氏が現役で活躍していることを知り、手入れをしたいが相談に乗って頂けるかとの連絡をとりました。
数日後、板垣氏とその関わりで吉田五十八の建物を手掛けた水澤工務店の社員ら数人の関係者が惜櫟荘を訪れました。だれもがこの家を懐かしむと同時に傷みの激しさに言葉を失くしていたのを、私は覚えています。「この家を一九四一年の竣工当時の状態に復元するとしたら可能か」と尋ねたところ、「出来ますよ。ただしこの家の設計図はありませんから、建物から設計図を作るところから作業が始まりますね。そのうえで惜櫟荘を解体し、ふたたび組み上げる工事が必要です。そうなると三年余りの歳月とそれなりの普請代が掛かります」と日本の代表的数寄屋建築保存に関わってきた水澤工務店のスタッフが告げました。およそ三年の修復作業に掛かる見積額ですが、八百坪余の敷地と惜櫟荘を購入した以上の額でした。意地っ張りで性急な性格の私は、即座に完全修復を決めました。
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