1971年秋のこと、父を偲ぶ会が開かれるので出席するようにと母から知らせを受けて、東京行きの飛行機に乗った。父、馬海松は1920年代半ばから文藝春秋で働いていた。雑誌創刊時のメンバーだったとはいえ、外国人である父のためにわざわざ会を開いてくれるなんて!
空港まで迎えに来てくださったイム・ナムス先生とともに文藝春秋へ向かい社屋最上階にある広い部屋に足を踏み入れると、そこには懐かしい菊池寛先生の肖像画が飾られていた。留学中に大学で聞いた菊池寛先生の授業に感激して以来、先生と過ごした時間は父にとって何事にも代えがたかったと思う。
偲ぶ会では多くの方から追悼のことばをいただき、私は感謝の気持ちでいっぱいだった。皆さんのテーブルを回ってご挨拶をしていたところ突然「この方が川端康成先生です」と紹介された。驚いた、あのノーベル文学賞を受賞された方ではないか。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の――。
川端先生は小柄で、きれいな着物と袴をお召しだった。お顔が青白くお疲れが見えたが、静かな声で懇願するような表情で話をしてくださった。
「私は今、ちょっと具合がよくないです。でもあなたが来ると聞いたので少し無理をしてここまで来たのです。私はあなたのお父様に大変お世話になった者です。私が重度の無気力症と鬱病でしばらく文章を書けなかった時、それを知った馬海松さんが何年もの間、私に生活費を送ってくれたのです。当時は『モダン日本』という雑誌を運営なさっていたときでしたが、作品を頼むわけでもなく何の条件もつけずにお金を送り続けてくださいました。おかげで生活ができました。早くにお亡くなりになられきちんとお礼を言うこともできずにおりました。あなたにはどうしても感謝の気持ちを伝えたいと思いここに来ました」
1930年創刊の『モダン日本』は文藝春秋による若者向け娯楽雑誌だったが、ほどなく廃刊が決まってしまう。父はその『モダン日本』を手掛けたいと菊池寛先生に頼みこんだ。ようやく許可が下りたものの当初は資金繰りに苦労し、菊池先生に助けてもらったという。雑誌は次第に予想を上回る売れ行きを示すようになり、借入金も完済し、モダン日本社として独立もできるようになった。父は会社を株式会社にし、株式の50%をまず菊池先生に渡し、残りの株も自分が保有する5%以外はすべて知人たちに分けた。
菊池先生には仕事以外でもお世話になったという。父と母の結婚式も先生のお宅で行われた。長男の私が生まれたときは行列字(あざな)〔家系内で同じ世代を表わすため名前の初めまたは2番目の字を共通にする〕のため故郷の祖父につけてもらったが、妹が誕生したときは菊池先生に名付け親になっていただいた。先生はご自分の小説『真珠夫人』から「珠」を、父の名前から「海」をとって「珠海」という美しい、世界で唯一の名前をつけてくれた。
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