父は生涯、表現者だった
早いもので父が亡くなってから2年が経ち、2月1日に三回忌を迎えましたが、今も父不在の実感がないのが正直な心境です。母が父の死からわずか1か月後に後を追うようにして亡くなったため、4人の兄弟で手分けして後片付けをいたしました。主人を失った田園調布の実家を売却してようやく一区切りがついたところです。父が取材を受けるたびにテレビに映っていた赤レンガ造りのあの邸宅も、今は解体されて更地になっています。
「いいか、『想念』が大切なんだ」。父がよく言っていた言葉です。久しぶりに、冬の日差しに照らされた、かつての車庫の前に敷かれたタイルを残して更地となった実家の前に立ってみると、色々な記憶が甦ってきます。これ等は父の言う「想念」の残像なのでしょうか。
まだ、学生の頃だったでしょうか、夜中にトイレに起きると廊下で父に出くわしました。父は「俺は今迄で最高の散文詩を書き上げた」と興奮気味に語りました。これは主にヨットにまつわる話で『風についての記憶』という著作にまとめられています。高揚して普段とは随分と違った様子の父は、私が初めて見る生々しい作家としての顔をしていました。
またある時は、父が寝室から出てきて目を腫らしている事がありました。曰く「俺の昔の選集に三島さんが書いてくれた後書きを読んで、ありがたくて涙が出た。あの人は正確に石原慎太郎という作家を発見してくれた」と。これは筑摩書房から出版された初期代表作を集めた新鋭文学叢書という選集の解説として三島由紀夫さんが書いたものです。三島さんは、知性なるものは非常にいい加減なものだけど、父の描く行動主義、肉体主義は日本の近代文学の中の知性の内乱ともいうべきもので、「石原氏はすべて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた」「文学が蘇るために、一度は経なければいけない内乱」だと述べています。文壇にデビュー間もない若い作家の存在価値を理解してくれた、父にとって本当に大事な人であっただけに、幼少でリアルタイムに経緯を知らなかった私にとっても後年の2人の確執を知るにつけ胸が痛い思いがします。
父と出会い続けている
父の死後、お別れの会をやることになり、その会場展示のキュレーションや参列して下さる方々にお配りする小冊子の編集、遺品の整理などをやりながら、次第に「石原慎太郎とは何だったのだろう?」と考えるようになりました。そして膨大な量の父の著作やドローイングに目を通しながら今もなお、今まで知らなかった父と出会い続けています。その喜びが、父と母を亡くした喪失感を抱くこともなくすんでいる理由かもしれません。
遺品の中には、作家の三島由紀夫さんや大江健三郎さん、政治家の佐藤栄作さんや中曽根康弘さん、さらにはアメリカのレーガン大統領など、各分野の著名な方々から父に送られた数多くの書簡が遺されていました。面白いところでは、太平洋戦争中、戦後の大物政治家・賀屋興宣(かやおきのり)さんからの書簡です。父は賀屋さんに選挙区地盤を譲ろうと言われるまでに可愛がられ、『新旧の対決か調和か』という共著を出しています。さらに交流を通して雑談からヒントを得て、賀屋さんをモデルにした小説「公人」を書きました。昭和の時代を感じさせる男女の秘められた慕情を描いた美しい話で、父の作品の中でも私が好きな小説の1つです。これには後日談があり、この小説を読んだ賀屋さんがいたく感動されて、自分でも小説を書いてみたいと骨子をまとめて父に送ったそうです。このやり取りは「鷹の心情」というエッセイとして『わが人生の時の会話』という著作の中に収められています。そしてこの賀屋さんの私小説のメモ書きまで遺されていて驚きました。
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