C・イーストウッドの映画「硫黄島二部作」が公開されてから、はや13年もの歳月が経った。その1作『父親たちの星条旗』は、日本社会の硫黄島地上戦へのまなざしを、従来の「鳥の眼」から「虫の眼」へと転換させる契機になった。作戦と部隊の展開に注目する戦史中心の地上戦理解がしばしば覆い隠してきた、下級将校や兵卒にとっての理不尽で過酷な戦場経験を、生還者の地を這うような視点で描いたからである。
もう1作『硫黄島からの手紙』にも、当時としては斬新な視点が組み込まれていた。たとえば、一瞬だけだが硫黄島の島民と集落が描かれた後、硫黄島に赴任したばかりの栗林忠道が、民間人を強制疎開させるシーンである。硫黄島に民間人がいたことを、この映画を通して知った日本人も多かったはずだ。だが、ここからが残念だった。イーストウッドは、強制疎開の実施を決断する栗林に、「島民は速やかに本土に戻すことにしましょう」と語らせる。「戻す」という表現は、硫黄島が1944年の強制疎開の時点で半世紀の歴史をもつ定住社会だった事実を、覆い隠す効果をもってしまう。
筆者は今年1月、10年越しで取り組んできた資料調査と島民へのインタビュー調査をベースとして、『硫黄島(いおうとう)――国策に翻弄された130年』(中公新書)を刊行した。予想をはるかに超えて、多数のメディアや読者から反響をいただいている。それは、硫黄島に住民の歴史・社会があった事実への驚きにとどまらない。硫黄島が日本近現代史の矛盾を凝縮したような場所であることに驚いたという感想が、数多く寄せられた。
硫黄島・北硫黄島を含む硫黄列島(火山列島)の入植・開発が始まったのは、19世紀末のことだ。その背景には近代日本初の南進論の高揚があった。その後、硫黄列島は、サトウキビ栽培と製糖を掌る拓殖会社が入植者を小作人として使役する、プランテーション型入植地となっていく。そして、日本がミクロネシア(南洋群島)を統治するなどさらなる「南洋」へと膨張する過程で、このプランテーション型モデルも南に向けて「移植」されていった。さらに1930年代に入ると、硫黄島のプランテーションは、日本帝国屈指のコカ(コカインの原料)の集約的な生産地となり、世界の闇市場にもつながる場となっていく。
そしてアジア太平洋戦争末期、日本海軍の大規模な滑走路をもつ硫黄島は、沖縄などとともに、地上戦の有力候補地となる。硫黄列島全体で1,094人が強制疎開の対象となった。他方、硫黄島に住んでいた16〜59歳の男性のうち、103人が軍属として地上戦に動員された(北硫黄島は全島民が疎開の対象となった)。生き残った島民は、わずか10人だった。沖縄戦について「住民を巻き込んだ唯一の地上戦」と言われることが多いが、日本帝国の法制度上の内地に限っても、南樺太、千島列島、そして硫黄島でも「住民を巻き込んだ地上戦」が行われた事実は、改めて銘記しておきたい。
日本の降伏後も、米軍は硫黄列島への島民の帰還を認めなかった。冷戦が激化するなか、日本はサンフランシスコ講和条約で主権を回復するが、これと引き換えに硫黄列島の施政権は米軍に差し出され、硫黄島は秘密裏に核基地化されていく。強制疎開前の島民は、小作人として搾取されていたものの、温暖な気候と肥沃な土壌に助けられ、衣食住にはあまり困窮しなかった。だが農地や漁場を失い、本土に投げ出された島民の多くは、極度の困窮に陥った。本土の「戦後」復興の傍らで、かれらは「冷戦」による故郷喪失を強いられたのだ。
1968年の「小笠原諸島」施政権返還の範囲には、硫黄列島も含まれていた。だが日本政府は、返還と同時に硫黄島を自衛隊の管理下に置いた。そして小笠原群島(父島・母島)には島民の帰還が認められた一方で、北硫黄島を含む硫黄列島には引き続き帰還が許されなかった。
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source : 文藝春秋 2019年9月号