アムステルダム五輪、陸上・三段跳びで日本人初の金メダルを獲得した織田幹雄(1905〜1998)が、野口純正氏に伝えた「陸上の神様」の神髄とは。
織田さんとの交流が始まったのは、『陸上競技マガジン』に在籍していた昭和56(1981)年頃。当時、70代後半の織田さんは、連載中の原稿を散歩がてら編集部まで届けてくださっており、陸上談義をして帰路に就くのが通例でした。
私も小学校から陸上競技に親しみ、それなりに知識があり技術論も話せたため、織田さんに気に入って頂けたのかもしれません。ある日、「君はどこに住んでいるんだ?」と聞かれ「小金井です」と伝えると、織田さんは、「千代田区の編集部までは遠いだろう」と渋谷区の自宅の空いている離れを、ホテル代わりに使ってはどうかと言ってくださいました。無償で貸してくださるとのことでしたが、申し訳ないので光熱費と電話代込みの家賃1万円で、月に1週間から10日ほど使わせてもらうこととなりました。
以来、休みの日に織田さんの本宅にお招きいただき、陸上の話をするのが何よりの楽しみになりました。あっという間に10時間ほど経つのは当たり前。「陸上の神様」と呼ばれた方との交流は、私の財産です。
織田さんは、体格に恵まれていたわけではありませんでした。幼少期は「骨と皮だけで身がない」とバカにされていたそうで、中学で陸上競技を本格的に始めてからも小柄なまま。オリンピックでメダルを獲得なさった頃でも167センチ、60キロ前後でした。その織田さんが世界と対等に戦えたのは、己を知り、日々陸上を探求していたからです。
大会当日が雨と想定し、あえて悪天候の日に練習する。「睡眠不足で競技に臨む時の集中力はどうか?」と、寝ずに出場することもあったといいます。このような積み重ねが大正13(1924)年のパリオリンピック三段跳びで、日本人初の入賞となる6位をもたらしたのです。
世界を知り、その強さを痛感した織田さんは、海外から頻繁に資料を取り寄せて陸上の潮流を把握し、技術向上の参考とします。そこで「外国人と同じ練習をしているだけでは勝てない」と分析し、効率的な跳躍を研究。やがて、三段跳びの「ホップ・ステップ・ジャンプ」の比率が6:4:5こそ、最も距離を伸ばせる力配分であると導き出しました。
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