日本人初の五輪選手であり、箱根駅伝の創設に尽力した金栗四三(かなくり・しそう、1891〜1983)。箱根駅伝で活躍し、2度にわたり五輪に出場した瀬古利彦氏が“日本マラソン界の父”への思いを語る。
恥ずかしながら、現役時代の私は金栗さんの存在を知らず、その偉業を知ったのは20年ほど前。教えてくれたのは、早稲田大学競走部の先輩で、熊本日日新聞の記者になった長谷川孝道さんです。長谷川さんは金栗さんの生涯を取材・連載しており、その記事を読んで、初めて金栗さんが箱根駅伝の生みの親であることを知ったんです。
金栗さんも私と同様に、五輪をめぐって辛酸をなめていました。大正5(1916)年のベルリン五輪が第一次世界大戦の影響で中止になってしまったんです。私の場合は昭和55(1980)年のモスクワ五輪で、ソ連のアフガニスタン侵攻に対して西側諸国がボイコットし、出場が叶わなかった。金栗さんも私も20代半ばで選手として一番勢いがある時期だっただけに、無念さは痛いほどわかります。
また、金栗さんは五輪初出場となった明治45(1912)年のストックホルム大会では熱中症で完走できず、棄権の届け出も忘れ「行方不明」という記録に。大正9(1920)年のアントワープ大会では16位、次のパリ大会でも途中棄権に終わりました。世界と戦う厳しさを知り、「世界に通用する人材を育てたい」という思いが箱根駅伝の創設につながったのでしょう。
金栗さんの経歴の中で私が最も驚いたのが、アメリカ横断駅伝の考案。西海岸からロッキー山脈を越え、ニューヨークまでの道のりを何人もの選手でリレーしようと構想していたそうです。その国内予選会として生まれたのが箱根駅伝だった。結局、アメリカ横断駅伝は実現しませんでしたが、箱根駅伝は日本の陸上界に根付いたのです。
昭和22(1947)年には、金栗さんの功績を称え、彼の故郷の熊本で「第一回金栗賞朝日マラソン」が開催されました。これはのちに「福岡国際マラソン」となり、私はこのレースで3連覇しました。当時は気づきませんでしたが、引退後、このマラソンでスタートする時の写真を見たら、近くに金栗さんが写っていた。晩年も大会に来て選手を見守ってくれていたんです。時間を巻き戻せるなら、走りにかける思いを聞いてみたかったですね。
54年越しのゴール
金栗さんは研究の人でした。それを象徴するのが「金栗足袋」と呼ばれるオリジナルの足袋。当時、日本には運動靴がなく、金栗さんは石畳の道でも破れないように足袋の底にゴムをつけ、足にフィットするように履き心地を追求。職人さんに頼んで改良を重ねたそうです。
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