アメリカからキリスト教伝道のために来日しながら、多くの名建築を残した建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)。小説『屋根をかける人』でその生涯を描き、自身の書斎の設計もヴォーリズが設立した建築事務所に依頼したという作家の門井慶喜氏が、その魅力を語る。
ヴォーリズに興味を持ったのは、雑誌の企画で作家の万城目学さんと近代建築を巡っていた時でした。どこかぬくもりを感じる建築に魅せられ、どんな人物なのか調べると、建築家、伝道師、教育者、ビジネスマンと、いくつもの顔を持っていたことが分かった。知れば知るほど、彼のスケールの大きな人生を小説に描きたいと思うようになりました。
ヴォーリズは日露戦争の最中の明治38(1905)年、滋賀県近江八幡の商業学校に英語教師として赴任します。ところが仏教色の強い近江八幡でYMCA(キリスト教青年会)の活動に熱心になり過ぎたことで反発を受け、失職。元々コロラド大学で建築学を学んでいた彼は、日本に留まり伝道の一環として教会を設計するようになります。自分で設計すればコスト削減になるという動機からだったと思われますが、その後、山の上ホテルや大丸心斎橋店など、生涯で1500件もの建物を設計しました。さらに、実業家としても活躍。塗り薬「メンソレータム」の輸入販売を始め、日本に広めたのもヴォーリズです。
多様な顔を持つヴォーリズですが、私が興味を引かれたのは、その全ての分野において彼が「素人」だったということです。
生涯をかけて伝道活動に打ち込んでいたヴォーリズですが、彼は宣教師ではありませんでした。そのため入信を希望する人がいても、洗礼を授けることはできません。そもそも近江八幡への赴任は、伝道師としての挫折を意味しました。当時のアメリカ人が誰も知らないような地への赴任――これがYMCAの彼に対する評価だったわけです。しかし彼はその地で地道に活動を続け、自分を慕いキリスト教を学ぶ学生たちに出会います。彼らは非常に熱心に聖書や英語の勉強に取り組んでいた。ヴォーリズにとって、このことが日本で生きるモチベーションになったことは言うまでもありません。
建築においても、建築士としての正式な資格を持っていたわけではありませんでした。ところが、彼の建築はその件数の多さからも分かるように、全国で人気を博します。ヴォーリズの建築は、同時代の別の建築と比べて素朴なデザインで、合理的な造りをしています。当時の日本人建築家たちは西洋に学び、そこに追いつこうと華美なデザインを好む傾向にありましたが、アメリカからやって来たヴォーリズには西洋への憧れがない。そのため肩肘を張らず、依頼者のことを考えた機能的な設計ができたのでしょう。私の書斎はヴォーリズの遺志を受け継いだ「一粒社ヴォーリズ建築事務所」にお願いしましたが、機能性や依頼者の意向を重視する設計姿勢は変わらず受け継がれていると感じました。
“専門家”でない特殊な立場
また、彼には薬に関する専門的な知識もありませんでしたが、アメリカへの一時帰国中にメンソレータムの開発者アルバート・ハイドに出会い、日本での販売権を寄付してもらうかたちで取得します。日本では家庭薬がそれほど普及していなかったことに加え、ヴォーリズの今でいう「マルチ商法」に近い、熱心な営業活動が功を奏し、メンソレータムは長く定番の薬として親しまれるようになりました。
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