ただ、母として

久保田 智子 姫路市教育長
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「パパに会いたい……」

 夜になると、真っ暗な寝室で、5歳の娘はぬいぐるみをギュッと抱きしめ、泣きながら訴えてくることがあります。「そうだよね、会いたいよね」。そんなとき、私はそう言いながら娘の頭を撫でるのでした。

 2024年4月、私はTBSテレビを退職し、姫路市の教育長に就任しました。娘と2人で姫路に移住し、夫は仕事の都合で1人東京に残りました。新しい街、新しい友達、そして、パパのいない生活。子どもなりにストレスも抱えているようで、夜になると想いが溢れてきて、「東京に行きたい」「家族3人一緒がいい」などと懸命に自分の気持ちを言葉にして伝えてきます。娘の未来のためにもなると思って決めたことでしたが、今こんなに寂しい思いをしていて、これでよかったのだろうか。その都度、私は自問します。そして、娘の気持ちをそのまま受け止めた上で「あなたや、他のたくさんの子どもたちのために、ママは姫路で頑張ってみたいんだ」と、ベッドに横たわる小さな背中をトントンしながら、なぜ姫路に来たのかを説明するのでした。

今年4月、姫路市教育長に就任した久保田智子氏(姫路市教育委員会提供)

 2019年、私たち夫婦は特別養子縁組制度を利用して、生後5日の娘を家族に迎えました。この日から、生活は大きく変わりました。子に過ぎたる宝なし、目に入れても痛くない……、言葉では分かっていたつもりでしたが、実際に子育てをしてみて、子どもがどれだけ大切なのかを、心から実感することになりました。

 この感覚は、私だけでなく、子育てをしている多くの皆さんに共通するものだと思います。私の場合は特別養子縁組で母親になったことも、子どもへの思い入れを一層強くしています。娘との出会いはご縁で、少しタイミングが違えば、娘は他のご家庭で育っていたのです。それは今の私にとっては想像するのも辛いことなのですが、たとえ私たちと一緒にいなかったとしても、娘には変わらず笑顔で幸せであってほしいと心から思います。そして、私たちは他の子どもを迎えて育てていたのだろうと考えると、すべての子どもたちのことが自分ごとに思えてきます。娘との出会いを通して、どんな環境下にあっても、すべての子どもたちが幸せを感じ、自分らしく、伸び伸びと元気に成長できる社会であってほしいと強く願うようになったのでした。

 そんな私に、姫路市の清元秀泰市長から教育長就任の打診がありました。市内の高校で講師として行った授業が、市長の目に留まったのだそうです。それまで個人の願いでしかなかったことを、教育長であれば政策を通して実現していけるのではないかと、胸が高鳴りました。

 一方で、教員でもない、行政の経験もない私に務まるのだろうかという不安も感じました。これまでの様々な経験が教育長を打診された主な理由でしたが、私が教育長をお受けしたいと思った理由は、突き詰めると、ただただ子どものことが大切な母親だからなのでした。とはいえ、子育てを頑張っている保護者は、私だけではありません。子どものことを大切に思うたくさんの人たちの中で、私でなくてはいけない理由はあるのだろうかとも思いました。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 働き方 ライフスタイル 教育