『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』(昭和52年)など数々の名作に出演し、日本映画界を牽引した俳優・高倉健(1931〜2014)。晩年までを共にしたパートナーの小田貴月氏がその素顔を語る。
「僕は、ただ運が良かっただけ。あの時、死んでてもおかしくなかった……」。映画俳優高倉健が誕生する前の、小田剛一が14歳の頃のことです。彼の故郷は福岡県中間(なかま)市。筑豊炭田に近く、八幡製鉄所を中心とした北九州工業地帯は戦時中、たびたび空襲の被害に遭っており、当時のことを私にこう語っていました。
「東筑中学に入学した時、学科の他に退役軍人が指導する“教練”があって、兵隊になるための基礎体力作りや手旗信号とか習うんだけど、出来が悪いと『制裁だ』って素手や竹刀で殴られる。とにかく、だれかが毎日ボコボコにされる。中学で学んだのは、先ず不条理だね。それと、学徒勤労動員っていって、上級生は工場や炭鉱、下級生は農家で作業するの。僕は、同級生と一緒に、貨車から石炭を降ろす作業をさせられた。真夏に、上半身裸で汗だくになって。暑かった! 空襲警報が鳴らされるから、最初はびくびくして近くの炭坑の斜坑に逃げこんでたけど、慣れてくると恐怖心って麻痺してくるんだよ。いちいち逃げるのも面倒になってた」
しかしある時、ロッキードP38が彼らを襲います。
「頭の上で轟音が響いて、機銃掃射をしてきてる飛行士の顔がはっきり見えた。夢中で、橋の下に向かって走った走った。戦闘機がいなくなって、妙な静けさで、みんなが、生きてるかどうか恐々見渡した。あの時、誰も死ななかったから、こんな風に話せるけど。8月9日の原爆投下は、その前の日、八幡に大空襲があって視界が悪くて最初の目標小倉から長崎に変更されたんだ。あの時(原爆で)死んでたら、今、逢えてなかったね。機銃掃射の時も原爆投下の時も、生死を分けたのは運。今でも、長崎で亡くなられた人たちへは、言いようのない複雑さがある」
高倉が、新年のカレンダーに真っ先に書き入れていたのは8月15日の“終戦”の文字。戦中、終戦の記憶は、反面教師として礼節を重んじること、時代のオーソドクスを鵜呑みにしないことを、彼の中に目覚めさせるきっかけとなったのです。
映画俳優の道を志したのは、憧れなどからではなく、「食うための生業」としてでした。
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