土光敏夫 三木首相を一喝

居林 次雄 元秘書・弁護士
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経団連第4代会長として、オイルショック後の日本経済の立て直しに尽力した土光敏夫(1896〜1988)。経団連で秘書として支えた居林次雄氏が「メザシの土光」の素顔を明かす。

 私が土光敏夫さんの秘書を務めたのは、昭和50(1975)年4月からの7年間です。土光さんは80歳を迎えようとしていました。半世紀近く前のことですが、石川島播磨重工業の社長や東京芝浦電気(現・東芝)の社長・会長を歴任した土光さんとの日々の記憶は今も鮮明です。それだけ刺激的で、濃密な時間だったのでしょう。

 昭和48年に第一次オイルショックが起きて高度経済成長が終わり、さらに昭和53年には第二次オイルショックが世界を襲いました。経団連の会長なんて、財界人の誰もがやりたがらなかった時代です。

 土光さんは日本の景気を回復させるべく、まずは自分たちの足下から変えていきました。経団連会館の蛍光灯を半分しか使用せず、稼働するエレベーターも半数に減らして節電に努めました。“省エネ”やいまの時代でいう“MOTTAINAI”の意識を徹底したのです。先見の明があったのでしょう。

土光敏夫 Ⓒ文藝春秋

 生活も質素で、後年、NHKが食卓の様子を撮影したところ、わずかなメザシとお新香、お味噌汁という質素な食べ物しか並んでいなかった。大きな反響があり、「メザシの土光」と呼ばれた所以です。そんな人ですから、出張は必ず日帰りで、夜の会食などに参加することはなく、会議も朝食を食べながら行うのが通例。「芸者などがいるところで本当の話ができるはずがない」というのが土光さんの考えでした。

 もともとエンジニアだった土光さんは、高騰する石油の代替エネルギーとして、太陽光発電なども模索しましたが、結局は原子力が一番良いという結論に至った。原子力発電所を一基造るには5000億円ほどの財源が必要でしたが、ひとつ造ってしまえば、大量のエネルギーを安定的に供給できる。燃料費も低く、発電コストは安定しています。もちろん危険性に関しても技術屋にヒアリングした上で、判断されていました。土光さんの時代に数十基もの原発が出来上がりましたが、それがなければオイルショック後のエネルギー危機は乗り切れなかった。ただ、安全性に細心の注意を払っていたとはいえ、津波が襲来したときの危険性にまでは、さすがに考えが及ばなかったでしょう。

居林次雄氏 Ⓒ文藝春秋

 写真を見ると温厚な印象を抱く人も多いかもしれませんが、あれほど迫力があり、厳しい人はいなかった。まさに「仕事の鬼」でした。指示通りに事が運ばなければ烈火の如く怒り、言い訳もいっさい通じない。ある日、経団連の役員を会長室に呼び、こう告げました。

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source : 文藝春秋 2025年1月号

genre : ライフ 経済 昭和史 ライフスタイル 歴史