「治者」の条件を問うこと
20代のはじめに読んだ江藤淳『成熟と喪失』は、単なる感想文にしか感じられなかった。現代批評のテクニカルタームで頭を一杯にしていた当時の自分には、これが文芸批評の「古典」であることの意味が上手く呑み込めなかった。
しかし、30代に入って改めて読んだ『成熟と喪失』は全く別の顔をしていた。この本は、可能性に満ちた若者の感受性とは逆の、ある環境の中で生きるしかないと覚悟した人間の「悲しみ」に訴えるようにして書かれていたのである。

この本のなかには、『作家は行動する』など、まだ社会を変えられると信じていた初期の若く明るい江藤淳はいない。60年安保闘争の敗北を見届け、さらにアメリカ留学から帰国した江藤は、高度経済成長に沸く戦後日本の「虚栄」を前に、しかし、それが「虚栄」でしかないことの意味を考えようとするのである。
そして、その時取り上げられたのが、「もはや戦後ではない」(昭和31年経済白書)と謳われだした時代に登場してきた文学者たち──「第三の新人」と呼ばれる安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三などの作品だった。
総じて彼らの作品は、敗戦コンプレックスを引きずった「劣等生・小不具者・そして市民」(服部達)を描き出していたが、それこそ戦後日本人の自画像だと江藤は指摘する。敗戦によって〈天皇=父親像〉を失い、占領解除と共に〈代理父=マッカーサー〉を失い、さらに今、高度経済成長によって伝統的な〈母親像=日本の自然〉も失おうとしている戦後日本人、それゆえに私達は、その人工的で空っぽの〈家=戦後空間〉のなかで、それを治める手がかりを失い、「弱く」なっているのではないかと言うのだ。
だが、本書の最後で江藤淳は、庄野潤三『夕べの雲』が描く「家長」──土地から切り離されながら「天」に対して全身を晒している孤独な「家長」──を見て言うだろう。彼が「『治者』の、つまり『不寝番』の役割に耐えつづけるためには、彼はおそらく自分を超えたなにものかに支えられていなければならない」と。
これは、トランプ再選で米国の後退が決定的になりつつある現在、改めて我々に突き刺さる主題ではないか。利益を得るには力が必要であり、力を治めるには価値が必要であり、価値を得るには「自分を超えたなにものか」への信仰が必要である。この共同体を治めることの条件を問うこと、そこに、保守思想家=江藤淳の真骨頂はあったと言えよう。
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